京都市上京区の護王神社は、和気清麻呂(わけのきよまろ)を祭神として祀っている神社です。
護王神社には、何度も参拝しているのですが、最近になって気付いたものがありました。
それは、東の塀に20枚以上の絵が架かっていることです。
この絵は、和気清麻呂の物語を描いたもので、平成10年(1998年)10月に和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)千二百年祭記念として塀に掲げられたもののようです。
北から順番に物語が進む
下の写真に写っているのが、それです。
この絵は、東の鳥居付近の塀にかかっているのですが、物語は、ここより北に少し歩いた塀に架かっている絵からはじまります。
和気清麻呂は、子供の時に姉の広虫と一緒に両親から、ご先祖さまは偉い方で、大きくなったら天子さまに尽くすようにと聞かされていました。
母と先生の見送りで、清麻呂は奈良の都へ上ることになります。
また、広虫は、法均という尼になって、天子さまに仕えることになりました。
ある年、ひどい飢饉で食物がなくなり、多くの子供が捨てられましたが、広虫はその子供たちを助けました。
広虫が拾った子供は83人もおり、彼女は、自分の子のようにかわいがって育てました。
その頃、僧侶の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が政治に口をだし、好き放題していました。
ある時、宇佐八幡宮のお告げとして、「道鏡を天子さまにするように。」と伝えた者がいました。
そこで、天子さまは、清麻呂に宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してくるように命じます。
道鏡は、清麻呂に自分の望みがかなえばお前を重い役目にとりたててやるからよろしく頼むと言いました。
これに対して、友人の路豊永は、清麻呂にもし道鏡の望みをかなえるようなことがあれば自分は生きていないと言います。
また、姉の広虫からも大事なお使いなので、覚悟を決めてしっかりとやるようにと励まされました。
清麻呂は宇佐へ出発します。
宇佐に到着した清麻呂は、八幡宮に一心にお祈りしました。
すると、我が国は、神代から君と家来の区別がはっきりと決まっているので、家来を天子さまにすることはできないという神さまからのお告げがありました。
そのことを都に帰った清麻呂は天子さまに報告します。
また、広虫は清麻呂の功績を讃えて喜びました。
これに怒った道鏡は、清麻呂を大隅国(鹿児島県)へ、広虫を備後国(広島県)へ流してしまいました。
道鏡は、途中で清麻呂を暗殺しようと家来を追いかけさせましたが、急に大嵐となったので、みんな逃げてしまいました。
また、豊前国(大分県)の山道を通っていくと、どこからかたくさんのイノシシがやって来て、清麻呂の供をしました。
大隅国で、清麻呂は天子様のことを忘れることはありませんでした。
また、藤原百川(ふじわらのももかわ)はお米を送って彼を慰めました。
広虫のもとにも、都の子どもたちから干し柿が届きます。
1年ほど経ち、清麻呂と広虫は天子さまに都へ呼び戻されました。
そして、道鏡は下野国(栃木県)へ流されることになりました。
平安遷都
都に帰った清麻呂と広虫は、重く用いられるようになりました。
桓武天皇は、都を奈良から京都に遷すことを決め、清麻呂を都を造る長官に任命します。
清麻呂が都を造る長官として尽くしたことから、立派な都ができあがりました。
桓武天皇は京都へ移ります。
その後、京都は平安京として千年余りも栄えました。
以上が、護王神社の東の塀に架かっている絵の物語の内容です。
これを一読すれば、和気清麻呂と平安京との関係が簡単に理解できますね。
護王神社に参拝した時は、一度、ご覧になってください。