ある日、京福電車の四条大宮駅の近くから四条通を西に向かって歩いていると、日本写真印刷という会社があるのに気づきました。
気づいたと言っても、ここに広い敷地を有している会社があるということは知っていたのですが、それが日本写真印刷という会社であることまでは確かめていませんでした。
日本写真印刷の四条通に面した敷地には、青々とした芝生が広がっており、まるで都会のオアシスのような景観です。
その芝生に見とれながら歩いていると、そこに朱雀院跡を示す石碑が立っているのに気づきました。
平安京最大規模の後院
下の写真に写っているのが、日本写真印刷の芝生です。

日本写真印刷の敷地
その芝生の中に説明書とともに朱雀院跡の石碑があります。
正面から見るとこんな感じですね。

朱雀院跡の石碑
説明書によると、朱雀院は、朱雀大路の西に接し、三条から四条に八町域の敷地を持つ平安京最大の面積を誇る類代の後院(ごいん)だったそうです。
後院というのは、上皇の御所のことです。
朱雀院を造営したのは嵯峨天皇で、その后の檀林皇后も御所として用い、さらには皇子の仁明天皇が周辺を取り込んで拡充したとか。
後院として本格的に使用されたのは、9世紀後半の宇多天皇の代からで、その後、醍醐天皇、朱雀天皇の後院ともなりましたが、続く村上天皇の天暦4年(950年)に焼失します。
この時は、再建されたのですが、以後、恒常的な使用はなくなったということです。
また、朱雀院は、源氏物語ゆかりの地でもあります。
桐壷帝の父である一院とその子の朱雀院が御所としており、一院の50歳の祝典で紅葉賀(もみじが)が華やかに催されています。
当地では発掘調査が行われており、地中で柱を支える礎板(そばん)を持つ掘立柱建物跡が検出されたとのこと。
その建物は、東西7間の母屋(もや)に北と南に庇(ひさし)を持っていたと考えられているそうです。
他に「朱雀院灰日記」と記された巻物の軸先も発掘されています。
現在では、朱雀院跡の周辺は、近代的な建物が多く、また、車もたくさん走っているので、京都以外の他の都市と、それほど景観に違いが見られません。
でも、街角には、朱雀院跡の石碑のようにそこが歴史の舞台であったことを示すものが、何気なく置かれていたりします。
朱雀院跡は、平安時代から栄え続けた地域であり、それが現在も続いているのでしょうね。
人や車の通りが多いのを見ていると、ふと、そのようなことを考えてしまいました。