久我畷の戦いで名越高家を討ち取った赤松円心の軍勢は、その後、足利高氏、千種忠顕(ちぐさただあき)とともに3方向から六波羅探題を攻撃します。
六波羅探題にとっては、味方だと信じていた足利高氏が裏切ったことで、劣勢となります。
元弘3年(1333年)5月6日。
足利高氏の裏切りを知った京都市民は、都が戦場になることを恐れて逃げまどい、町は混乱していました。
赤松勢と千種勢の連続攻撃
明けて5月7日の早朝。
足利勢5万が丹波口から、赤松勢3千が東寺から六波羅に向かって進出します。伏見方面の千種勢が2万7千だったので、後醍醐天皇方の総戦力は8万になっていました。
対する六波羅探題の兵力は6万。
最初に六波羅に攻撃を仕掛けたのは、赤松勢3千でした。
これに対して六波羅勢は、淡河左京亮通時以下1万の兵が当たります。
赤松勢の勢いはすごかったものの、さすがに1万の軍勢には勝てず、七条河原まで押し返されてしまいます。
赤松勢が退いた後は、千種勢が六波羅に攻撃開始。
この頃になると、六波羅探題の旗色が悪くなっていることは、誰の目にも明らかだったので、六波羅勢の中からは裏切り始めるものが出始めていました。
六波羅脱出
もはや六波羅を守りきることはできないと判断した六波羅探題の北条仲時と時益は、その夜遅くに光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を伴って東に落ちのびることを決定します。
密かに六波羅北門を出た一行でしたが、すぐに見つかってしまい、四条河原で戦いとなりました。
この戦いで、北条時益が流れ矢に当たって討ち死に。
その後も野武士の襲撃を受けながら、なんとか5月8日には、近江の観音寺にたどり着き、ここで夜を過ごすことにしました。
六波羅を脱出した時には2千ほどいた兵も、この時には半分以下にまで減っていました。
明けて5月9日になり、一行は再び東に向かって落ちのびていきます。
伊吹には、幕府方の佐々木道誉がいるので、そこを頼れば一安心。それまでの辛抱だと思いながら進んでいきます。
北条仲時一行が、愛知川(えちがわ)に差し掛かった時には、供の佐々木時信の姿が見えなくなっていました。
時信は、仲時に従っても、先はないと判断し、京都に引き返して、後醍醐天皇方に降参したのです。
さらに人数が減ったところで、一行を山賊や野武士が金品を狙って襲ってきます。
追い払っても追い払っても、やってくる山賊の群れ。
仲時にしたがっていた糟谷三郎(かすやさぶろう)が、偵察に出かけたところ、山賊たちの数は3千もいることが判明。
一行は、番場の宿の辻堂に立ち寄り、安全のために天皇と2上皇をその中に入れます。
そして、もはやこれまでと観念した北条仲時は、辻堂の前で切腹します。
これを見た家臣たちも次々に切腹し、総勢432人が、ここで命を絶ちました。
北条仲時たち432人のお墓は、現在、蓮華寺にあります。
墓所には、石塔がずらっと並んでおり、その写真は、「中山道ひとり歩る記」さんの下記記事に掲載されています。
蓮華寺と「北条仲時他430余名の墓」(旧中山道を歩く 293)2014年12月2日追記:左記ブログは閉鎖しています。
北条仲時たち432人を供養したのは、糟谷十郎とされています。
彼が何者なのかはわかりませんが、仲時とともに自刃した糟谷三郎と縁のあるものではないかと思われます。
翌5月10日に光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は長光寺に入り、その後で、後醍醐天皇方の護衛により京都に戻りました。