元弘2年(1332年)に討幕を企てた後醍醐天皇は隠岐に流されました。
この時、天皇とともに隠岐に流された近臣には、一条行房と千種忠顕(ちぐさただあき)がいます。
隠岐に流された後醍醐天皇は、幕府の監視の中で、囚人として日々を送ることになりました。
しかし、幕府の警備の兵の中には、後醍醐天皇を隠岐から救い出し、京都に戻そうと計画している者たちがいました。
後醍醐天皇の隠岐脱出
隠岐で後醍醐天皇の監視にあたっていたのは、佐々木清高でした。
この佐々木清高の目を盗んで、天皇を脱出させようと考えていたのが、成田小三郎と名和泰長です。
成田と名和は、元弘2年の10月頃からどうすれば脱出が可能かとあれこれと思案します。
そして、隠岐からの脱出には船が必要となることから、海賊の村上祐四郎を仲間に引き入れることにしました。
具体的な脱出決行日は、佐々木清高が隠岐を留守にする正月以降とし、成田小三郎と名和泰長は、着々と準備をしていきます。
しかし、名和泰長は、隠岐からいったん本土に戻ったところで、何者かによって斬られ、この世を去りました。天皇の隠岐脱出のために情熱的に行動したことが災いを招いたといわれています。
名和泰長が亡くなった後も、後醍醐天皇の隠岐脱出計画は秘密裏に進み、遂に元弘3年2月に本土への脱出に成功しました。
船上山から千種忠顕出陣
隠岐からの脱出に成功した後醍醐天皇は、名和泰長の兄の長年の助力を得て、船上山(せんじょうせん)にたてこもります。
すでに後醍醐天皇が隠岐を抜け出したことに気付いていた幕府軍は、直ちに船上山を攻撃しましたが、名和長年の守りは固く、攻略することができません。
また、この頃になると、鎌倉幕府に対する武士たちの信頼も少しずつ失われており、六波羅から援軍も来ないことから、20日ほどで、船上山での戦いは収束しました。
楠木正成、護良親王、赤松円心の挙兵で、六波羅探題がてんてこ舞いとなっている中、船上山からは、千種忠顕が8千の兵を率いて京都を目指して出陣。
山陰道を東に進みながら、軍勢は徐々に増えていき、兵力は1万を超えます。
そして、千種忠顕は、一気に六波羅探題を攻め滅ぼそうと京都に侵攻を開始しました。
しかし、勢いだけで突き進んだ千種軍は、あっけなく六波羅軍によって追い払われます。
わずかな兵とともに千種忠顕は、山崎の赤松円心の陣に命からがら逃げのびてきました。
もしも、千種忠顕が、京都へ攻める前に赤松円心と連絡を取り、両軍が同時に六波羅を攻撃していたら、結果は違ったものになっていたでしょう。
千種忠顕が、六波羅攻めの際に布陣したとされるのが、京都府八幡市の男山にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)です。
淀川をはさんだ北には山崎があり、そこには赤松円心が陣をしいていました。
千種軍と赤松軍は、京都の六波羅探題ののど元まで侵攻していたわけですね。
なお、石清水八幡宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。