前回の記事では、明治天皇によって崇徳天皇が白峯神宮に祀られたことを紹介しました。
白峯神宮には、崇徳天皇の他にもう1柱、祭神が祀られています。
その祭神は淳仁天皇で、明治6年(1873年)に白峯神宮に祀られることになりました。
奈良時代に非業の死を遂げた淳仁天皇
淳仁天皇は、奈良時代に孝謙天皇から譲位されて即位しました。
孝謙天皇は、その後、上皇となります。
孝謙上皇は、僧の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)と親密な関係になります。
上皇は、あまりに道鏡を寵愛するあまり、天皇にしようとまでしましたが、和気清麻呂の活躍により道鏡が天皇になることは阻止されました。その話は、これより後のことです。
孝謙上皇が道鏡と親密になることを警戒した淳仁天皇は、上皇に対して諫言しました。
これを不愉快に思った孝謙上皇は、淳仁天皇から天皇大権を取り上げてしまおうとします。
こうなってくると、淳仁天皇の側近であった藤原仲麻呂もおもしろくなくなってきます。
そして、次第に孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・藤原仲麻呂は対立するようになりました。
両者のいがみあいは、遂に藤原仲麻呂の乱を起こすことになります。
乱を起こした藤原仲麻呂は、戦いに敗れ、処刑されました。
仲麻呂が処刑されると、淳仁天皇も廃位となり淡路島に流されます。
そして、淳仁天皇は彼の地で病死しました。
明治になって淳仁天皇となる
淳仁天皇という諡(おくりな)は、明治になってからおくられたものです。
では、それまでは、どのように呼ばれていたのかというと、ただ「廃帝(はいたい)」とだけ記録されていました。
淳仁天皇が亡くなって約1100年ほどは、ずっと廃帝のままだったのです。
これでは、淳仁天皇の怨霊が明治になってからも、祟りをもたらすかもしれません。
ということで、明治6年に京都市上京区の白峯神宮に淳仁天皇の御霊を祀ることにしたのです。
もしも明治時代になっても淳仁天皇に諡がおくられず、白峯神宮にもその御霊が祀られなければ、今も廃帝のままだったかもしれませんね。
そうすると、歴史の教科書にも、廃帝と記述され、わかりにくかったことでしょう。
今はスポーツの神さま、特にサッカーが上達することで有名な白峯神宮ですが、その本殿に祀られているのは、非業の死を遂げた崇徳天皇と淳仁天皇だと聞くと、ちょっと怖くなってきますね。
でも、崇徳天皇の御霊も淳仁天皇の御霊もこうやって祀られたのですから、鎮魂されたことでしょう。