武勇に優れた建御名方神を祀る尚徳諏訪神社

日本の神話の中に大国主命(おおくにぬしのみこと)の国譲りの話があります。

大国主命が天照大神に自分が統治していた国を譲ったという話ですね。

この国譲りの話の中で、大国主命の2人の子供が登場します。

ひとりは建御名方神(たけみなかたのかみ)で、もうひとりは事代主神(ことしろぬしのかみ)です。

このうち、建御名方神は、長野県の諏訪大社(すわたいしゃ)に祀られています。

諏訪神社が敗者を祀った理由

大国主命が国を譲る際、天照大神は彼のもとに建御雷神(たけみかづちのかみ)を使者として送りました。

建御雷神は、大国主命に国譲りを迫りますが、大国主命は、自分だけでは判断できないので、2人の子供の意見も聞いて欲しいと建御雷神に言います。

そして、建御雷神は、まず事代主神を屈服させ、その後で、建御名方神に国を譲るように迫りました。

国譲りを迫る建御雷神に対して、建御名方神は、それなら自分と力比べをしろと言って、建御雷神の腕をつかんだところ、建御名方神の手が氷柱に変わってしまいました。

これを見て驚いた建御名方神がひるんだところを建御雷神が腕をつかんで投げ飛ばしました。

恐れをなした建御名方神は逃げ出します。

それを負う建御雷神。

遂に長野県の諏訪湖まで逃げたところで、建御名方神は建御雷神につかまってしまいました。

観念した建御名方神は、建御雷神に自分は二度と諏訪から外に出ないので、命だけは助けて欲しいと頼み、国譲りにも同意しました。

この話を聞くと、建御名方神はなんかだらしのない神さまだなと思ってしまいますね。

でも、諏訪大社が建御名方神を祀っているのにはしっかりとした理由があります。

建御雷神は、天の国の神さまたちの中で最強の神さまです。

なので、地上の神さまである建御名方神が負けても仕方がないことです。

しかし、建御名方神は、地上では最強の神さまです。

彼が諏訪にやって来た時、この地に住んでいた守矢(もりや)氏の氏神と天竜川で戦いました。

建御雷神には負けてしまいましたが、守矢氏の氏神とは力に差があったため、建御名方神は守矢氏の氏神を屈服させます。

そして、建御名方神は諏訪を征服し、八坂刀売神(やさかとめのかみ)と結婚し、十三柱の御子神をもうけて諏訪を繁栄させました。

この建御名方神の武勇は、中世の武士たちの信仰の対象となります。

敗れはしたものの、天の神さまの中で最強の神さまである建御雷神に真っ向勝負を挑んだ建御名方神の勇気に当時の武士たちは敬意を表したわけですね。

このような理由から、長野県や新潟県の武士たちに武運長久の神さまとして諏訪大社の信仰が広まっていったのです。

京都の尚徳諏訪神社

諏訪大社の信仰は、信州を中心に全国に広まりました。

京都でも、蝦夷平定に東北に赴いた坂上田村麻呂が、諏訪大明神を信仰しており、そのおかげで戦果を挙げて都に凱旋できたことから、信州より諏訪大明神の分霊を勧請(かんじょう)し、社殿を建立しました。

それが、下京区に建つ尚徳諏訪神社です。

尚徳諏訪神社

尚徳諏訪神社

尚徳諏訪神社は源氏や徳川幕府からも崇敬されており、社殿が荒廃しても彼らの手によって復興されてきました。

また、元治元年(1864年)の蛤御門の変で焼失した時には、孝明天皇から再建費用として150両と菊の紋付の提灯を賜っています。

尚徳諏訪神社は、境内は狭いですが、京都でも歴史の長い神社ですね。

ちなみに尚徳諏訪神社には、建御名方神の他に事代主神も祀られています。

事代主神は商売繁盛のご利益を授けてくれる神さまなので、現代人にとってはありがたい神さまですね。

なお、尚徳諏訪神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。