仏師の祖・定朝ゆかりの七条仏所跡には何もない

京都駅からほど近い七条高倉の交差点。

今は、車の通りが多く、民家やお店がたくさん並んでいます。

ここは、その昔、仏師たちが彫刻に励んだ七条仏所があった場所とされています。

現在は、その面影がなく、誰かに聞かないとわからないような感じなのですが、交差点の民家にそれを示す京都市の説明書が立っていたのを偶然に見つけたので、ここが七条仏所の跡地だということがわかりました。

平安時代に定朝が活躍

下の写真に写っているのは、七条高倉の交差点です。

七条仏所跡付近

七条仏所跡付近

この交差点の一角にある民家に説明書が立っていました。

七条仏所は、七条大仏所ともいわれ、平安時代中期に仏師の定朝(じょうちょう)をはじめ、その一族、子弟、子孫が長く居住し、彫刻に励んだ場所とのこと。

定朝と言えば、宇治市の平等院鳳凰堂に安置されている阿弥陀如来坐像を彫ったことで知られています。

平等院鳳凰堂

平等院鳳凰堂

現在、定朝作と確証があるのは、この阿弥陀如来坐像だけです。

私も過去に一度だけ阿弥陀如来座像を拝んだことがありますが、とても大きい座像でしたよ。

高さが2.5メートルもありますから、立つとさらに大きな姿となります。

定朝は、和様と呼ばれる彫刻技法を完成させ、また、仏師の共同組織として仏所の制度を整えたことから、我が国における仏師の祖と仰がれています。

鎌倉時代にも有名な仏師が現れる

鎌倉時代に入ると、運慶、快慶、湛慶といった優れた仏師が現れました。

これらの仏師は、奈良県の東大寺南大門の金剛力士像を彫ったことで有名ですね。

京都では、三十三間堂に安置されている1001体の観音さまの中央の巨像(中尊)が、湛慶の作です。

三十三間堂

三十三間堂

湛慶は、運慶の子で、三十三間堂の中尊は、彼が82歳の時に彫ったもの。

鎌倉時代の名作として高い評価を受けています。

実際に1001体の観音さまを拝むと、その迫力に驚きます。

特に中尊は、後光が射しているように感じますね。

このように平安時代、鎌倉時代に多数の仏師を輩出した七条仏所ですが、室町時代になると彫刻は振わなくなり、21代康正(こうしょう)の時に四条烏丸に移転しました。

その後、幕末の動乱で火災に遭い、仏所の遺構は完全に失われたということです。

現在、七条仏所跡には、京都市の説明書が残っているだけなので、往時をしのぶことができません。

七条高倉の交差点から南西の空を見上げると、背の高い京都タワーが目に入ります。

これも時代の移り変わりなのかと思いながら、七条通を鴨川に向かって歩くのでありました。