京都市左京区にある南禅寺に金地院(こんちいん)というお寺が建っています。
歴史好きの方なら、金地院という名を聞いてピンと来る方も多いと思いますが、このお寺は、徳川家康に仕えた金地院崇伝(こんちいんすうでん)ゆかりのお寺です。
現在、金地院は一般の拝観が可能で、鶴亀の庭園や狩野派の襖絵などを鑑賞することができます。
徳川家康の遺髪と念持仏を祀る東照宮
金地院は、地下鉄蹴上駅から5分ほど歩いた辺りに建っています。
金地院は、応永年間(1394-1428年)に室町幕府4代将軍の足利義持が大業徳基(だいごうとくき)を開山に迎えて、北区の鷹峯に創建したのが始まりです。
その後、崇伝が慶長10年(1605年)頃に南禅寺に住持した際、現在地に移転しました。
門をくぐると右手に拝観受付があります。
拝観料は400円。
拝観料を納め、拝観案内をいただき順路にしたがって境内を散策します。
庭園の入口となっているのが、下の写真に写っている明智門です。
明智門は、天正10年(1582年)に明智光秀が母の菩提を弔うために黄金1,000枚を寄進して建てたものです。
当初は、北区の大徳寺にありましたが、明治元年(1868年)に金地院に移されました。
このような何気ないところに戦国時代の建造物があるのが、歴史好きの方には、たまらないのではないでしょうか。
明智門の先には、弁天池があります。
元は境内にある東照宮と開山堂の間にあった池庭でしたが、明治時代に明智門付近に移されました。
弁天池から時計回りに進んでいきます。
ちょうど弁天池の後ろ側に来ると、細長い参道が現れます。
この参道の先に建っているのが、徳川家康の遺髪と念持仏を祀る東照宮です。
創建されたのは、寛永5年(1628年)で、日光東照宮と同じく、拝殿と本殿が石ノ間で結ばれた権現造(ごんげんづくり)となっています。
拝殿の天井には、狩野探幽の筆となる龍が描かれています。
拝殿の前には、「東照公遺訓」が書かれていました。東照公とは、徳川家康のことです。
「一、人の一生は重荷を負て遠き道を行が如し、いそぐべからず」から始まり、「一、及ばざるは過たるよりまされり」で終わる遺訓は、含蓄のある言葉が多くあります。
家康の遺嘱により東照宮を建てた崇伝は、黒衣の宰相とも呼ばれ、2代将軍秀忠、3代将軍家光の代まで権勢を振いました。
特に崇伝が、方広寺の釣鐘に「国家安康」と「君臣豊楽」の文字を見つけ出して、豊臣家を責める口実を作り、大坂の陣で同家を滅亡に導いたことは有名な話ですね。
方丈の南に広がる鶴亀庭園
東照宮を過ぎて境内の西側に進むと、崇伝の塔所の開山堂が建っています。
開山堂から見える建物が方丈です。
木々に視界を阻まれ、全景を写すことができませんでした。
方丈は、慶長16年に伏見城から移築した建物です。
また、建物内にある襖絵は、狩野探幽や光信の筆によるものです。
方丈の南に広がる庭園は、鶴亀の庭園と呼ばれています。
鶴亀の庭園は、小堀遠州が作庭した枯山水庭園で、彼が作庭した中で唯一確実な資料が残っているものだそうです。
拝観案内によると、前面の白砂は宝船を象徴すると同時に海洋を表しているとのこと。
中央には、平べったい大きな石があります。これは東照宮の遥拝石(ようはいせき)だそうです。
その右側には、鶴島があります。
左側には亀島。
庭園の後ろ側にある大刈込は、何重にも連なる深山幽谷を表す蓬莱山です。
方丈内の廊下から東を眺めると、その奥に東山がそびえているのがわかります。
近くには交通量の多い道路がありますが、庭園内では、車の音がほとんど聞こえませんでした。
方丈から庭園を眺めていると、まるで、山の中にいるようでしたよ。
なお、金地院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。