慶応4年(1868年)1月に始まった鳥羽伏見の戦いは、その名のとおり、京都市の鳥羽と伏見で新政府軍と旧幕府軍が戦いました。
現在の京阪電車伏見桃山駅と近鉄電車桃山御陵前駅の近くでは、北に新政府軍の薩摩藩、南に旧幕府軍の会津藩と新撰組が陣取り、激しくぶつかり合いました。
その時の弾痕が、今も京料理屋の魚三楼(うおさぶろう)に残っています。
格子に残る傷跡
魚三楼は、伏見桃山駅から南に2分ほど歩くと到着します。桃山御陵前駅からも大体2分ほどですね。
魚三楼は、江戸時代から200年以上も続く老舗のお店です。
外観は、比較的新しそうなのですが、お店には、鳥羽伏見の戦いの傷跡がしっかりと残っています。
私が訪れた時は、お店は休みでした。
お店の前には、鳥羽伏見の戦いの弾痕についての説明書が置かれています。
その説明書の右側の格子に弾痕があります。
写真撮影は自由とのことですが、弾痕には触れないようにという注意書きがありました。
こういったものは、手で触ると劣化していき、傷跡が無くなってしまうので見るだけにしないといけません。
以前、新撰組の最初の屯所となった八木邸を拝観したことがあるのですが、柱についた刀傷が拝観者の方たちに何度も触られたため、ほとんど見分けがつかない状態になっていました。
さて、魚三楼の格子を見ると、確かに弾がかすめた跡がありました。
格子は、当たり所が良かったのか、割れてはいますが、完全には折れずに残っています。
柱にも弾が当たった跡があります。
2枚の写真は、ともに右から左に向かって弾が発射されたように見えます。
方位でいうと、右が北で左が南となります。
鳥羽伏見の戦いは、新政府軍が新式銃や大砲を中心に戦ったのに対し、旧幕府軍は、刀や槍での突撃が中心でした。
おそらく、魚三楼についている弾痕は、北の新政府軍が発射した新式銃のものだろうと思います。
魚三楼の前の道路はあまり広くないので、旧幕府軍が刀を持って突撃しても、新式銃の的になるだけだということは容易に想像できます。
そのため新撰組は、夜になるのを待って薩摩藩の陣に斬り込んでいったと伝わっています。
しかし、新式銃と大砲の前では、旧来の戦い方では応戦することができず、旧幕府軍は南へ南へと退却を繰り返し、大坂城まで撤退しました。
伏見桃山には、御香宮神社が建っています。
御香宮神社に参拝した際には、魚三楼の鳥羽伏見の戦いの弾痕も見てはいかがでしょうか。