マキノ省三の像が等持院にあるのはなぜ?

日本映画の父といわれているマキノ省三の像が京都市北区にあります。

なぜ、彼の像が京都市にあるのか。

それは、マキノ省三が、最初の撮影所を京都市に創設したことが理由です。

織物業が発達した太秦

下の写真に写っているのが、マキノ省三の像です。

マキノ省三の像

マキノ省三の像

高さがあるので、下から見上げるようにしか写真を撮影できませんでした。

で、マキノ省三の像があるのはどこかというと、京都市北区の等持院の入口付近です。

等持院

等持院

マキノ省三が、最初の撮影所を創設したのはこの等持院の地で、昭和45年(1970年)にマキノ省三先生表彰会がこの像を立てました。

等持院が建っている地は、映画村がある太秦(うずまさ)の近くです。

太秦に日本映画の撮影所が多いのは、もともとこの地が織物産業が発達した地だったからです。

和服はもちろんのこと、時代劇に欠かせないカツラなんかも太秦で生産されているので、映画の撮影には都合がよかったわけですね。

太秦で織物産業が発達した理由は、5世紀まで時代をさかのぼります。

この時代は、朝鮮半島から様々な渡来人が訪れていました。

その中に秦酒公(はたのさけのきみ)という人物も含まれていました。

秦酒公は、天皇にたくさんの絹を献上しました。その量はとても多く、庭にうず高く積み上げられました。

秦氏がうず高く絹を積み上げた。

天皇は、その功績により禹豆満佐(うずまさ)という姓を与え、後に太秦という字が当てられるようになりました。

太秦の地名が付いたのは、この故事が理由です。

私は映画にそれほど興味があるわけではなかったので、等持院に訪れた時、マキノ省三の像を見てもどういう人なのかわかりませんでした。

それで、本などで調べてみると、マキノ省三が日本映画に多大な影響を与えた人物であったことや太秦が映画撮影所のメッカとなった理由などがわかりました。

もしも、秦酒公が天皇に大量の絹を献上しなければ、太秦で織物産業が発達しなかったかもしれません。

そうすると、太秦にたくさんの映画撮影所ができなかったかもしれませんし、マキノ省三も京都ではなく他の場所で撮影所を創設していたかもしれません。

5世紀の出来事と映画撮影とは全く関係がないように思えますが、実はそうではなく、歴史上の出来事と現代の生活や文化は、調べてみれば意外と何らかの関係があるもんですね。

日本映画の歴史やマキノ省三に興味がある方は、等持院に訪れてみてはいかがでしょうか。

なお、等持院の詳細は以下のページを参考にしてみてください。