京都市中京区の地下鉄烏丸御池駅から南西に5分ほど歩くと、高松神明神社という神社が現れます。
この神社をご存知の方は少ないのではないでしょうか。
私も参拝するまでは、社名すら聞いたことがありませんでした。
境内もいたって特徴がない感じだったので、簡単にお参りをして帰ろうと思ったのですが、よくよく境内を見てみると真田幸村と縁のあるお地蔵さんが祀られていることに気付きました。
平治の乱の後も残った神社
高松神明神社は、マンションと一軒家に挟まれた狭い敷地に建っています。
白い石造りの鳥居の左には、「此付近 高松殿址」と刻まれた石柱が立っています。
高松神明神社は、平安時代中期に源高明(みなもとのたかあきら)の邸宅であった高松殿の鎮守社として創建されました。
平安時代後期には、後白河天皇が高松殿で即位し、保元の乱(1156年)の際には、天皇の本拠地となりました。
しかし、その3年後に起こった平治の乱で高松殿は焼失し、神社だけが当地に残りました。
その後、高松神明神社は、永禄8年(1565年)に宥玉が社僧となり、神社は高松神明宮宝性院という神宮寺となります。
そして、明治時代の神仏分離令により、宝性院は廃寺となり現在の高松神明神社となりました。
白い鳥居をくぐり境内に入ると、また白い鳥居が現れます。
2つ目の白い鳥居の奥に高松神明神社の社殿が建っています。
まずは、本殿にお参り。
紀州九度山からやって来た神明地蔵尊
本殿にお参りを済ませて、境内を見渡すと、その左隣に小さな祠がありました。
ここに祀られているのが、真田幸村と縁のあるお地蔵さんです。
お地蔵さんの名は神明地蔵尊といいます。
真田幸村は、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に味方して敗北し、父の昌幸とともに紀州九度山に追放されました。
幸村は、九度山で毎日、毘沙門天と地蔵尊を拝んで暮らしていました。
その時の地蔵尊が、現在、高松神明神社に祀られている神明地蔵尊だったのです。
その後、幸村は九度山を脱出し、大坂城に入城します。
迫りくる徳川の大軍を数々の知恵を使って撃退した幸村は、現代では智将と評価されていますね。
高松神明神社の説明書と鳥居のそばに貼られていた2009年10月15日の京都新聞の夕刊によると、九度山の善名称院(ぜんみょうしょういん)に安置されていた神明地蔵尊を寛政6年(1794年)に宝性院が譲り受けたそうです。
神明地蔵尊は、毎月17日と18日に公開されるとのこと。
台石をさすった後、子供の頭をなでると真田幸村の知恵を授かることができると伝えられています。
ご利益がありそうですね。
なお、高松神明神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。