京都市北区の堀川通と北大路通が交差する堀川北大路とそこから300メートルほど南にある堀川紫明付近の間には、平安時代に活躍した2人の人物のお墓と江戸時代の義士の遺髪塔跡があります。
平安時代に活躍した人物のお墓は、紫式部と小野篁(おののたかむら)のものです。
そして、江戸時代の義士の遺髪塔跡は、赤穂浪士のものです。
どちらも大きな企業の敷地近くに存在しています。
紫式部と小野篁の墓
紫式部と小野篁のお墓は、同じ場所に存在します。
2人のお墓は、堀川北大路の交差点から南に100メートルほど進んだ場所にあります。
実際にその場所に行ってみると、島津製作所の広い敷地があるだけで墓地のようなものはどこにもありません。
しばらくその付近を探してみると、島津製作所の敷地の北側に細い路地を発見。
いや、よく見るとこれは路地ではありません。
路地らしき入り口の左の石柱には「小野篁卿墓」と刻まれており、右の石碑には「紫式部墓所」と刻まれています。
てっきり、どこかのお寺の墓地にあるものと思っていたので、こんなにひっそりとしていることに驚きました。
薄暗い細い道を奥に進んでいくと、紫式部のお墓がありました。
お墓の上には、前日に降った雪が積もっていました。
紫式部のお墓の隣に小野篁のお墓があります。
真ん中の石柱には「小野相公墓」と刻まれています。
小野篁と言えば、閻魔大王に仕えてこの世とあの世を行き来したとか、一度死んだのに蘇ったとか様々な伝説が残っています。
東山の六道珍皇寺には、篁が冥土に赴くために使ったと伝えられている井戸が今も存在しています。
赤穂義士四十六士遺髪塔跡
紫式部と小野篁のお墓から南に200メートルほど進み、堀川紫明の交差点を越えた辺りに大日本スクリーン製造株式会社の敷地があります。
島津製作所ほどではありませんが、こちらの敷地もなかなか広いですね。
この大日本スクリーン製造株式会社の敷地の東側に赤穂義士四十六士遺髪塔跡の石碑があります。
もともとこの地には、瑞光院というお寺が建っていました。
瑞光院は、赤穂藩の浅野家の菩提寺です。
忠臣蔵に登場する浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかった罪で切腹した後、赤穂藩の家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が主君の衣冠を埋め、石塔を建立して弔ったと伝えられています。
その後、大石ら47人の赤穂浪士が主君の恨みを晴らすために吉良邸に討ち入り、見事本懐を遂げた後、切腹し、彼らの遺髪が瑞光院に埋められ、その上に遺髪塔が建立されました。
遺髪塔の名称が赤穂義士四十六士となっているのは、義士のうち寺坂信行が切腹していないためで、もちろん彼の名は遺髪塔に刻まれていません。
なお、瑞光院は、昭和37年(1962年)に山科区に移転しました。その時に遺髪塔もお寺とともに山科区に移転しています。
大きな会社ができても、お墓や史跡が壊されずに残っていたり、跡地に石碑が置かれたりするのが京都の良いところですね。