京都市左京区の金戒光明寺の墓地には、崇源院、春日局(かすがのつぼね)、徳川忠長の供養塔があります。
いずれも江戸時代初期の人物で、お互いに深い関係があることで知られています。
崇源院の供養塔
金戒光明寺の墓地は、境内の東側にあります。
墓地に入ってすぐの左側の石段を上ったところに建っている大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が崇源院の供養塔です。
崇源院は、浅井長政と織田信長の妹のお市の方との間に生まれた女性で、お江(おごう)の名でも知られています。
姉には、豊臣秀吉の側室となった淀殿と京極高次に嫁いだお初がいます。
3人を総称して浅井三姉妹とも呼ばれていますね。
お江は、後に徳川秀忠に嫁ぎます。
2人の間には、豊臣秀頼に嫁いだ千姫、徳川家光、忠長など7人の子供がいました。
春日局の供養塔
崇源院の供養塔の左には、春日局の供養塔があります。
春日局という名は、朝廷から賜ったもので、本名はお福といいます。
お福は、明智光秀に仕えた斎藤利三の娘として誕生しました。
明智光秀が山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れると斎藤利三は処刑されます。
しかし、お福は女性だったため、捕えられることはありませんでした。
その後は、稲葉正成に嫁ぎ、慶長9年(1604年)には徳川家光の乳母となります。
徳川忠長の供養塔
崇源院の供養塔の右側には、徳川忠長の供養塔が建っています。
忠長は、徳川秀忠と崇源院の間に生まれた子で、徳川家光の弟です。
家光が乳母の春日局に育てられたのに対して、忠長は母の崇源院によって育てられたと言われています。
そのため、崇源院は、兄の家光よりも弟の忠長を可愛がり、次期将軍にしたいと思っていました。
しかし、崇源院の忠長に対する溺愛は、その後、将軍継嗣問題へと発展していくことになります。
この問題を解決しなければならないと思ったのが春日局です。
春日局は、元和元年(1615年)に徳川家康に会いに行き、事の次第を報告して、3代将軍を家光にするように願い出ました。
そして、家康は鷹狩と称して江戸城に行き、満座の中で次期将軍は家光とすることを宣言し、将軍継嗣問題は解決します。
元和9年に家光が3代将軍になると、その翌年の寛永元年(1624年)に忠長は、甲斐、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)あわせて55万石を領有することになります。
このことから忠長は、駿河大納言と呼ばれるようになりました。
忠長は、55万石を領有する大大名になりましたが、それに満足せず、父の秀忠に100万石に加増か大坂城をくれるように頼みます。
しかし、この願いは秀忠に受け入れられませんでした。
その後、忠長の素行が悪くなります。
幕府は、彼の領地を没収し、安藤重長のもとに預けました。
そして、忠長は、寛永10年に幕命により切腹させられ、この世を去りました。
忠長の一件について、その責任の一端が自分にもあると感じた春日局は、寛永11年に金戒光明寺に忠長の供養塔を建立しました。
ちなみに崇源院の供養塔も春日局が、寛永5年に建立したものです。
なお、金戒光明寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。