寿永2年(1183年)7月に平家が都を落ち、代わりに入京したのが木曽義仲とその叔父の源行家でした。
この時、一番喜んだのはおそらく後白河法皇だったのではないでしょうか。
なぜなら、平家は都を落ちて西国に向かうことを決定した際、後白河法皇を都から連れ出そうとしていたからです。
その計画を知った法皇は、平家の探索から逃れるためにどこかへと姿をくらまし、息を殺して危険が過ぎ去るのを待っていました。
平家が都を去り難を逃れた法皇でしたが、実はこの後、更なる問題に直面することとなります。
木曽義仲の上洛でさらに治安悪化
後白河法皇は、上洛したばかりの木曽義仲と源行家に平家追討とともに京都の治安を守るように命じます。
そして、義仲には朝日将軍という称号を与えました。
しかし、義仲は田舎育ちであったため、宮廷での作法を知らなかったり、もともと荒々しい性格であったことから、法皇はどうも彼のことを好きになれませんでした。
さらに義仲に京都の治安を守るように命じたにもかかわらず、彼の兵士達が略奪を繰り返したことで、治安は以前よりも悪化。
そこで法皇は、こっそりと鎌倉にいる源頼朝に征夷大将軍にするから、上洛するようにと命じました。
敵だらけの木曽義仲
一方、義仲の方は、一緒に上洛した叔父の行家との仲が悪くなったり、閏10月1日に屋島にいる平家を追討するために出陣しましたが、水島合戦で負けたりと上洛してからいいことがありません。
しかも、義仲が平家と戦っている間に法皇は、諸国の納税義務を守らない者達に税を払わないと鎌倉の源頼朝に命じて処罰させると伝えていました。
水島合戦から京都に帰ってきた義仲は、これを知り、平家追討のために最初に上洛した自分をないがしろにする法皇の行為に激怒します。
さらに義仲は、法皇が頼朝の上洛を促していたことを知り、自分が東の頼朝と西の平家に包囲されていることに気付き、法皇に対する怒りは頂点に達しました。
生き残りをかけた義仲の決断
危機に陥った義仲は、まずは平家と和議を結んで東の頼朝との対決に集中しようと考えます。
しかし、平家からは和議を結ぶのかどうか一向に連絡がありません。
それどころか、叔父の行家が播州に出陣して平家と戦い負けたことで、和議の可能性はかなり低くなっていました。
このような危機的状況の中で、義仲に追い打ちをかけるように後白河法皇は、平家追討のために西に向かうように命じます。
京都を離れると孤立してしまうことがわかっていた義仲は、ここである決断をします。
その決断とは、法皇のいる法住寺殿を襲撃して、法皇と後鳥羽天皇を幽閉し、東の頼朝や西の平家と戦うことでした。
法住寺殿焼き打ち
11月19日。
義仲は、法住寺殿を襲撃します。
後白河法皇も義仲の襲撃に備えて兵を集めていましたが、義仲軍の攻撃には敵わず、法住寺殿は焼かれ、法皇は五条内裏に幽閉されてしまいました。
平家に西国に連れて行かれずに済んだと思ったら、今度は義仲に法住寺殿を焼き打ちされ、しかも幽閉されるとは、平家の都落ちの時には思いもよらなかったことでしょう。
法住寺殿は、現在の京都国立博物館、三十三間堂、新熊野神社(いまくまのじんじゃ)がある辺りに広大な敷地を有していました。
現在、法住寺は三十三間堂の東に建っていますが、平安時代の頃ほどの寺域は有していません。
また、法住寺の裏には、後白河天皇法住寺陵があります。
なお、法住寺の詳細については、以下のページを参考にしてみてください。
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