平家の都落ちと様々な別れ

驕る平家は久しからず。

寿永2年(1183年)7月、かつて栄華を極めた平家が、都から落ちていくことになりました。

以仁王と源頼政の挙兵

平治の乱で平清盛が勝利してから約20年の間、権力は平家に集中していました。

いつの時代でも、権力者に近付こうとする者がいれば、ねたむ者もいます。

そして、治承元年(1177年)、平家をねたむ者達が、平家を追い落とそうと計画した鹿ヶ谷の変が起こりましたが、あっけなく平清盛にばれてしまい、計画は未遂で終わりました。

しかし、この頃から打倒平家の機運は高まっていきます。

それから3年の時が過ぎた治承4年(1180年)。

後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)と鵺(ぬえ)退治で有名な源頼政が、遂に平家追討のために挙兵します。

しかし、この挙兵も平家を倒すどころか、簡単に鎮圧され、以仁王も源頼政も宇治川で討死にしました。

ところが、この時すでに以仁王は、平家追討の令旨(りょうじ)を諸国の源氏に発していたのです。

源頼朝の挙兵と平清盛の死

以仁王の令旨は、東国の源頼朝のもとにも届いていました。

平治の乱以来、囚われの身となっていた頼朝は、旗揚げの決心をし、遂に挙兵します。

頼朝は、石橋山の戦いでは負けたものの、その後、富士川の戦いでは、平維盛(たいらのこれもり)率いる平家軍を破りました。

この時、平家軍は、水鳥が飛び立つ音に驚き、戦わずして都に逃げ帰ったと伝えられています。

富士川の戦いの翌年の治承5年3月。

ここまで平家を発展させてきた平清盛が、「我が墓前に源頼朝の首を供えよ」との遺言を残してこの世を去ります。

富士川での敗北と清盛の死は、以後、平家の弱体化へとつながって行きました。

木曽義仲の挙兵と倶利伽羅峠の戦い

清盛の死後、今度は北陸で木曽義仲が挙兵します。

木曽義仲は、源頼朝の従兄弟で、彼にも以仁王の令旨が届いていました。

義仲は、北陸の至る所で平家を破っていきます。

義仲の対平家との戦いで有名なのが、寿永2年の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いです。

義仲は、牛の角に松明を付けて、10万人とも言われる平家軍を夜襲。

牛の群れが突進してくるのに驚いた平家軍は、坂を転がるように逃げ、次々と倶利伽羅谷に落ちて行ったと伝えられています。

なお、この時の平家軍の総大将も富士川の戦いの時と同じ平維盛でした。

倶利伽羅峠の戦いで勝利した後、義仲は、いよいよ上洛を開始します。

平家の都落ち

木曽義仲の上洛が刻一刻と迫る中、平宗盛は、平家一門の都落ちを決断します。

平家は、幼い安徳天皇(清盛の孫)と後白河法皇を連れて西国に落ち、その後、力を付けて再び京都に戻ることにしたのです。

しかし、後白河法皇は、この平家の動きを素早く察知し、比叡山に隠れてしまいました。

結局、平家は、後白河法皇を連れることなく、西国に落ちていくことになります。

宗盛は、都落ちを命じるために平家の者達に使者を遣わし、六波羅や西八条の邸宅を焼き払い、都を後にしました。

それぞれの別れ

都を落ちていく平家の者達には、様々な別れがありました。

源氏との戦いで全く良い働きをできなかった維盛は、他の者達が妻子を連れて都落ちする中、妻の北の方とその子を都に残し、西国へと落ちて行きました。

また、都落ちの際、右京区の仁和寺に向かう者が2人いました。

1人は平経正、もう1人は池頼盛です。

仁和寺

仁和寺

経正は、清盛の甥にあたる人物で、幼いころ仁和寺に入れられて、守覚法親王に仕えていました。

彼は、親王に最後のあいさつとともに、以前、賜った青山(せいざん)と言う琵琶を返すために仁和寺に訪れたのです。

この後、西国に落ち、源氏との戦いの中で青山が壊れてしまうことを恐れたためです。

一方の池頼盛は、平家と別れ、都に残るために仁和寺へと向かいました。

頼盛は、清盛の異母弟です。

母は池禅尼で、平治の乱の後、清盛に源頼朝の命乞いをしたことで知られています。

そのため、頼盛は、平家一門の中でも仲間外れにされることがしばしばあったそうです。

木曽義仲が上洛を開始した時、頼盛は山科に出陣していましたが、宗盛の手違いで都落ちの指示が彼のもとには伝わっていませんでした。

これに激怒した頼盛は、平家とともに西国に落ちることを拒んで都に残り、その後、鎌倉の源頼朝にかくまわれることになります。

下京区の五条烏丸の藤原俊成の邸宅にも別れを告げに来る者がいました。

それは、平忠度(たいらのただのり)です。

俊成は、平安時代の歌人で、忠度はその門人でした。

平家の都落ちの少し前、俊成は後白河法皇から千載和歌集の編纂を命じられていました。

忠度は、今までに詠んだ歌を書き綴った冊子を俊成に渡し、「せめてこの中から一首でも選んでほしい」と伝え、都から落ちていったと言われています。

なお、俊成が邸宅に建立した新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)は、現在も残っています。

新玉津島神社

新玉津島神社

そして、千載和歌集には、「故郷の花」と題した以下の歌が収録されました。

さざなみや 志賀の都は 荒れにしを むかしながらの 山ざくらかな

この歌は、「読み人知らず」として収録されていますが、実は、平家の都落ちの際に平忠度が藤原俊成に渡した冊子に収められていたものとされています。

千載和歌集の編纂時は、その名を伏せて読み人知らずとされましたが、後に俊成の子の定家が編纂した新勅撰集には、忠度の名とともに上の歌が再録されています。

なお、忠度の都落ちについては、「今日は何の日?徒然日記」さんの忠度の都落ち 平家物語の記事でも詳しく紹介されていますので、ご覧になってください。

西国で力を蓄えるために都を落ちた平家でしたが、以後、彼らが都に帰ることはありませんでした。

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