京の流しびな・2014年
毎年3月3日は、京都市左京区の下鴨神社で、「京の流しびな」が催されます。 その名のとおり、雛人形を境内を流れる御手洗川(みたらしがわ)に流す行事です。 私は、今回初めてこの行事を見に行きました。 どんな行事なのか、とても楽しみであります。
観光名所、史跡、四季折々の風景を写真とともに紹介するブログ。※アフィリエイト広告を利用しています。
毎年3月3日は、京都市左京区の下鴨神社で、「京の流しびな」が催されます。 その名のとおり、雛人形を境内を流れる御手洗川(みたらしがわ)に流す行事です。 私は、今回初めてこの行事を見に行きました。 どんな行事なのか、とても楽しみであります。
2月3日の節分の日に京都市左京区の聖護院の節分会の豆まきに参加した後、その正面に建つ須賀神社にもお参りをしてきました。 須賀神社の節分も有名なので、聖護院の節分会とともに訪れると良いでしょう。
2月3日に京都市左京区の聖護院の節分会に参加してきました。 その際、近くにある本家西尾八ッ橋さんで、無料接待が行われていたので、節分会が始まる前に立ち寄りました。 こういった無料接待が、京都の節分の楽しみのひとつなんですよね。
毎年2月3日に京都各地で行われる節分行事。 普段から多くの参拝者と観光客でにぎわう平安神宮でも、この日は、朝から様々な節分行事が行われます。 私が平安神宮に訪れたのは、午後2時頃。 そろそろ大儺之儀(だいなのぎ)が行われる時間です。
毎年2月3日は、京都の各地で節分祭が催されます。 節分祭が有名なお寺や神社はたくさんあり、左京区の聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)の節分会もそのうちのひとつです。 追儺式(ついなしき)が午後1時から行われるということだったので、それより15分ほど前に聖護院に到着し、しばらく待つことに。
延元元年(1336年)10月10日に足利尊氏に後醍醐天皇が降伏しました。 後醍醐天皇に仕えていた新田義貞は、恒良親王(つねながしんのう)と尊良親王(たかながしんのう)とともに北国に向けて旅立ち再起を図ります。 冬の寒さが厳しくなる時期に敦賀の金ヶ崎城を目指して進む新田義貞とその一行。 比叡山を出発した時には7千ほどの軍勢でしたが、途中、寒さに負けて離脱する者、足利軍に降伏するものなど、次々にその数は減っていき、金ヶ崎城に到着した時は、出迎えに来た気比氏治(けひうじはる)を合わせても500ほどしかいませんでした。
延元元年(1336年)5月25日に湊川の戦いで楠木正成が戦死しました。 翌26日には、湊川から退却した新田義貞が、京都に戻ってきました。 湊川での敗戦により、足利尊氏の軍勢が京都に攻め上ってくるのは時間の問題。 そのため、27日に後醍醐天皇は京都をいったん離れ、比叡山の東坂本へと移りました。 生前に楠木正成が提案した、足利軍を京都におびき寄せて街道を封鎖し物流を断つ作戦を実行することにしたのです。
元弘元年(1331年)8月24日の夜に京都を脱出し、南都に向かった後醍醐天皇のおとりとなるために偽天皇に扮装した花山院師賢(かざんいんもろかた)らが比叡山に到着しました。 翌日25日になって、後醍醐天皇が失踪したことを知った六波羅探題の北条仲時は、兵を出して、公卿の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、洞院実世(とういんさねよ)、九条公明(くじょうきんあきら)などを捕えました。 しかし、彼らも後醍醐天皇からは何も聞かされておらず、失踪したことを知りません。 その日、さらに六波羅を驚かせたのは、比叡山の八王子で、護良親王(もりながしんのう)が討幕のために僧兵を味方につけて挙兵し...
京都市左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)では、2011年から山門の修復が行われています。 完成予定は2013年秋ということなので、そろそろ工事も終わりに近づいている頃ですね。 どのような姿に山門が変わったのか見たくて、金戒光明寺を訪れてきました。
京阪電車の終着駅の出町柳駅付近には、小さなお寺がたくさんあります。 どこも、あまり目立たないので、ほとんどの人が素通りするのですが、9月中旬になると、その中のひとつ常林寺の境内で、たくさんの萩の花が咲くことから、つい中に入って萩に見入ってしまう人をちらほらと見かけます。 そんな人たちに混ざって、私も常林寺の萩を見てきましたよ。