上御霊神社の御霊合戦旧跡の石碑
戦国時代の幕開けとなったのは、文正2年(応仁元年/1867年)1月18日に始まった応仁の乱です。 この日、畠山政長と畠山義就(よしなり)との間で、畠山惣領の座を巡る合戦が起こりました。 畠山家の内紛だけでなく、足利将軍家の後継問題、斯波氏の内紛なども絡み、戦いは11年にもおよぶ長期戦となりました。
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戦国時代の幕開けとなったのは、文正2年(応仁元年/1867年)1月18日に始まった応仁の乱です。 この日、畠山政長と畠山義就(よしなり)との間で、畠山惣領の座を巡る合戦が起こりました。 畠山家の内紛だけでなく、足利将軍家の後継問題、斯波氏の内紛なども絡み、戦いは11年にもおよぶ長期戦となりました。
京都市東山区の東福寺は、京都屈指の紅葉の名所として知られていますが、三門など諸堂も立派な建物ばかりです。 そのため、東福寺に参拝した時は、建物もしっかりと見ておきたいですね。 その東福寺の諸堂の中には、東司(とうす)と呼ばれる建物が建っています。 東司とは聞きなれない建物でありますが、実はトイレのことです。
今から550年前の応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱は、京都の街を焼きつくしました。 これまでの価値観は崩壊し、世は戦国時代へと突入。 公卿たちが都を離れて地方で暮らすようになり、各地に小京都ができるようになったのもこの頃からです。 戦国時代は、社会の価値観が崩壊し、下の者が上の者に取って代わる下剋上が流行するようになりました。 そして、下剋上を象徴するように活躍し始めたのが、足軽と呼ばれる兵士たちでした。
室町時代に起こった応仁の乱は、11年間続き、京都の町を焼け野原にしました。 応仁の乱が終結した後も、全国各地で争いは続き、やがて戦国時代に突入していきます。 応仁の乱で、畠山家の家督争いに敗れた畠山義就(はたけやまよしなり)は、文明9年(1477年)に斎藤妙椿(さいとうみょうちん)とともに河内国を武力で制圧。 畠山家の家督を相続し山城守護についた畠山政長がこれに怒り、応仁の乱が終結した後も両者は争い続けることになりました。
応仁の乱(1467年)は11年にもおよび、京都の町を焼き尽くしました。 多くの家屋が焼失し、焼け野原となってしまったわけですが、現在でも京都の町が栄えていることから、歴史を知らなくても応仁の乱後に町が復興されたんだと想像できますね。 応仁の乱で壊滅的打撃を受けた京都を最初に復興したのは誰だったのでしょうか。 織田信長や豊臣秀吉など歴史上の有名な人物が思い浮かぶかもしれませんが、実は、応仁の乱後、最初に京都の町を復興しようとしたのは町衆と呼ばれる庶民たちだったのです。
鎌倉時代や室町時代に臨済宗のお寺は格付けがされていました。 五山十刹(ござんじっさつ)というのがそれです。 このような格付けは、南宋の官寺制度を範にしたもので、鎌倉幕府の執権であった北条貞時から始まっています。 鎌倉の浄智寺を五山に列したのが始まりで、その後、京都五山が指定され、室町時代になると、五山の下に十刹、その下に諸山が作られました。 京都五山は、南禅寺を別格として、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺と続きます。 大きな禅寺ばかりですね。 でも、よく見ると、五山に入っていても良さそうなお寺の名が見当たりません。 大徳寺が忘れられていませんか。...
京都市右京区の旧京北町(けいほくちょう)に常照皇寺というお寺があります。 常照皇寺は、貞治元年(1362年)に北朝の初代天皇であった光厳法皇(こうごんほうおう)が創建しました。 常照皇寺は、訪れたことがある方ならご存知と思いますが、京都市中心部からかなり遠い場所に建っています。 なぜ、光厳法皇は、都から遠い場所に常照皇寺を創建したのでしょうか。
京都の街を歩いていると、思いがけないところに史跡があったりします。 ある日、京都市上京区の本法寺に参拝し、次に妙顕寺を訪れようと小川通を南に歩いていると、東西を通る寺之内通に突き当たる辺りで、百々橋(どどばし)の礎石を発見しました。 説明書を読んでみると、どうやら応仁の乱の史跡のようです。
京都は、長い歴史の中で何度も戦乱によって焼失しています。 中でも室町時代に起こった応仁の乱(1467年)は、11年に渡って東軍と西軍が戦い、京都の町は壊滅的な状態となりました。 被災地域は、京都の3分の1にも及んだと伝えられています。 現在の京都市上京区の堀川上立売(ほりかわかみだちうり)の辺りには、山名町という地名が残っています。 この山名町には、西軍を率いた山名宗全の邸宅があったことで知られています。
京都市北区の大徳寺には、たくさんの小さなお寺が建っています。 別院と塔頭(たっちゅう)を合わせると20以上になり、それらのいくつかは、戦国武将と関係があります。 そこで、今回の記事では、戦国武将と関係がある大徳寺の塔頭を紹介したいと思います。