
元日は魔除けの祈願に新日吉神宮へ初詣・2014年
2014年の元日は、いろんな神社に初詣に訪れました。 今年は、厄除の神社にもお参りをしておこうと思い、向かったのが京都市東山区の新日吉神宮(いまひえじんぐう)です。
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2014年の元日は、いろんな神社に初詣に訪れました。 今年は、厄除の神社にもお参りをしておこうと思い、向かったのが京都市東山区の新日吉神宮(いまひえじんぐう)です。
元日に豊国神社に初詣に訪れました。時刻は正午前。 豊国神社は、豊臣秀吉を祀っている神社ということで、開運出世のご利益を授けてくれます。 今まで初詣で豊国神社にお参りしたことはありません。 今回、参拝しようと思ったのは、正月の三箇日は本殿にお参りできるということを以前に書いた記事にコメントしてくれた方がいらっしゃったからです。 その時、コメントしていただいた方には大変感謝しています。
元弘3年(1333年)5月に六波羅探題が滅亡した後、足利高氏、千種忠顕(ちぐさたたあき)、赤松円心が京都に留まります。 まだ、後醍醐天皇の還幸前だったので、戦後の混乱から京都の治安が悪化することを防ぐためでした。 そして、足利高氏は、六波羅に奉行所を置き、弟の直義に強盗などの街の治安を乱す者たちの取り締まりを命じ、捕えたものには厳罰を与えるように指示しました。
久我畷の戦いで名越高家を討ち取った赤松円心の軍勢は、その後、足利高氏、千種忠顕(ちぐさただあき)とともに3方向から六波羅探題を攻撃します。 六波羅探題にとっては、味方だと信じていた足利高氏が裏切ったことで、劣勢となります。 元弘3年(1333年)5月6日。 足利高氏の裏切りを知った京都市民は、都が戦場になることを恐れて逃げまどい、町は混乱していました。
元弘2年(1332年)に楠木正成が天王寺で討幕のために挙兵し、その後、11月には護良親王(もりながしんのう)も吉野で挙兵しました。 これに対して、鎌倉幕府も楠木正成がたてこもる赤坂城と千早城、護良親王がたてこもる吉野へ大軍を動員し、反乱を鎮めようとします。 幕府軍が、楠木正成と護良親王に手を焼いている間、今度は、元弘3年1月に赤松円心が播磨で挙兵しました。
地下鉄五条駅を出ると烏丸五条の交差点です。 この交差点の北西の角に悪王子町という町名が残っています。 また、五条駅からひとつ北にある四条駅の東には、元悪王子町という地名も残っています。 悪王子町と元悪王子町。 何か関係があるのでしょうか?
京都市東山区に建つ泉涌寺(せんにゅうじ)には、天智天皇からの歴代天皇の御尊牌を奉祀している霊明殿という建物があります。 現在の霊明殿は、明治17年(1881年)に明治天皇によって再建されたものです。 泉涌寺は、御寺(みてら)とも呼ばれており、皇室の菩提所として篤く信仰されてきたお寺です。 なので、霊明殿には、天智天皇からの歴代天皇の御尊牌が祀られているわけです。 しかし、不思議なことに天智天皇以降のすべての天皇の御尊牌が祀られているわけではありません。
京都市東山区の八坂神社には、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が祀られています。 素戔嗚尊は、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したことで知られていますね。
京都市東山区の地下鉄東山駅から南に5分ほど歩いた辺りに建つ青蓮院(しょうれんいん)には、立派なクスノキが5本植えられています。 この5本のクスノキは、京都市登録天然記念物となっています。 天然記念物に登録されるだけあって、背がとても高く、横に張り出した枝も飲み込まれそうなくらいの迫力があります。
京都市東山区に建つ豊国神社は、その名から想像できるように豊臣秀吉を祀っている神社です。 豊臣秀吉というと、大坂城のイメージが強いですが、京都との関係が深い人物です。 京都を城郭都市とするために御土居を造りましたし、亡くなったのは伏見城だったわけで、秀吉は全盛期から晩年まで、京都で過ごしていました。 秀吉が亡くなると、その遺言により、遺体は東山の阿弥陀ヶ峰に葬られ、そのふもとに廟社が建てられ、後陽成天皇から豊国大明神の神号を賜りました。 しかし、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると徳川幕府により、廟社は壊されてしまい、明治時代まで再建されませんでした。