
綱紀以降名君が出なかった前田家・加賀藩邸跡
江戸時代、京都にはたくさんの大名の藩邸が置かれました。 薩摩藩、長州藩、土佐藩といった幕末に活躍した藩の藩邸はもちろんのこと、それ以外の藩邸も存在していました。 その中には、100万石を有する大藩の加賀藩の藩邸もありました。
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江戸時代、京都にはたくさんの大名の藩邸が置かれました。 薩摩藩、長州藩、土佐藩といった幕末に活躍した藩の藩邸はもちろんのこと、それ以外の藩邸も存在していました。 その中には、100万石を有する大藩の加賀藩の藩邸もありました。
「花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて退きも退いたり加護島へ」 上のわらべ歌は、大坂夏の陣の終戦後に流行したものです。 豊臣秀頼は、元和元年(1615年)に大坂城で自害し、真田幸村も戦死したことになっています。 しかし、実は、幸村は大坂夏の陣で戦死せず、秀頼を連れて鹿児島に落ち延びたとも伝えられています。
京都市左京区の平安神宮近くに本妙寺という小ぢんまりとしたお寺が建っています。 この付近は、本妙寺と同じくらいかそれよりも小さいお寺がたくさん建っているので、車の通りは多いのですが、京都らしさを感じることができます。 本妙寺は、観光寺院という訳ではないのですが、忠臣蔵と関係があるお寺なので、紹介しておきたいと思います。
京都市下京区の西本願寺の西側、JR丹波口駅の東側の町中の道路に古風な門が建っています。 お寺の門なのかと思ってくぐってみると、その先も道路。 一体、この門はどういったものなのかと思い、近くにあった説明書を読んでみると島原大門(しまばらおおもん)であることがわかりました。
京都市東山区にある三十三間堂の東に養源院というお寺が建っています。 養源院は、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室の淀殿が政伯法印(せいはくほういん)を開山として建立したのが始まりです。
京都市左京区の金戒光明寺の墓地には、崇源院、春日局(かすがのつぼね)、徳川忠長の供養塔があります。 いずれも江戸時代初期の人物で、お互いに深い関係があることで知られています。
江戸時代の仇討と聞いてすぐに思い浮かぶのが忠臣蔵ですよね。 赤穂藩(あこうはん)の殿さまの浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城松の廊下で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけたため、その責任をとって切腹、藩も取りつぶし。 その後、家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)らが、亡き主人の敵をとるために吉良上野介の邸に討ち入り、見事に本懐を遂げるというのが、忠臣蔵のおおまかな話です。 この忠臣蔵と関係のある名所が、京都市山科区にはいくつかあります。 そこで、今回の記事では、以前に訪れたことのある忠臣蔵の名所を3つ紹介したいと思います。
京都市伏見区には、以前は水運の拠点だったことから、港がありました。 その港は伏見港と呼ばれ、現在の京阪電車中書島駅付近は港町として賑わっていました。 しかし、今では伏見港は埋め立てられ、公園となっています。 埋め立てられたということは、港が必要なくなったということですが、その理由は一体何だったのでしょうか。 そこで、今回の記事では、伏見港の発展と衰退の歴史について紹介したいと思います。
観光や旅行で京都に訪れた時に京都らしさを感じるもののひとつとして挙げられるのが鴨川です。 三条大橋や四条大橋から鴨川の流れを見ると京都に来た実感が湧いてくるという方も多いのではないでしょうか。 京都らしさを感じる川は、鴨川の他にもいつくかあります。 鴨川のやや西にある木屋町通に沿って流れている高瀬川もそのひとつですね。
京都御苑の西側に蛤御門(はまぐりごもん)という門が建っています。 正式名は、新在家御門。 しかし、江戸時代のある時期から蛤御門と呼ばれるようになりました。