
道路工事で牛馬の喉の渇きを潤した亀の水不動
江戸時代中期に3年がかりで行われた東海道日ノ岡峠の改修工事は、木喰正善養阿(もくじきしょうぜんようあ)が心血を注いで行った事業です。 日ノ岡は、今の京都市山科区にあり、この辺りは、車の交通量が多いですね。 山科区には、木喰遺跡と呼ばれるものがいくつかあり、地下鉄御陵(みささぎ)駅から南の方に10分ほど歩いた辺りにひっそりと建つ亀の水不動もそのひとつです。
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江戸時代中期に3年がかりで行われた東海道日ノ岡峠の改修工事は、木喰正善養阿(もくじきしょうぜんようあ)が心血を注いで行った事業です。 日ノ岡は、今の京都市山科区にあり、この辺りは、車の交通量が多いですね。 山科区には、木喰遺跡と呼ばれるものがいくつかあり、地下鉄御陵(みささぎ)駅から南の方に10分ほど歩いた辺りにひっそりと建つ亀の水不動もそのひとつです。
京都市上京区の同志社大学の近くを歩いていると、人の背よりも高い石碑を発見しました。 その石碑の前の説明書には、藤井右門(ふじいうもん)宅跡と書かれていました。 藤井右門は、忠臣蔵でおなじみの赤穂藩の家臣であった藤井又左衛門の子で、赤穂藩取り潰しの後、又左衛門が移り住んだ越中国射水で享保5年(1720年)に生まれました。
京都駅から伏見区まで南北に竹田街道が走っています。 竹田街道は昔から京都の交通にとって重要な役割を果たしており、人だけでなく多くの荷物も行き来していました。 江戸時代には、荷物を運ぶのに牛車(うしぐるま)を利用しており、材木や米などが運ばれていました。
京都市中京区の地下鉄烏丸御池駅から南西に5分ほど歩くと、高松神明神社という神社が現れます。 この神社をご存知の方は少ないのではないでしょうか。 私も参拝するまでは、社名すら聞いたことがありませんでした。 境内もいたって特徴がない感じだったので、簡単にお参りをして帰ろうと思ったのですが、よくよく境内を見てみると真田幸村と縁のあるお地蔵さんが祀られていることに気付きました。
慶長2年(1597年)に徳川秀忠の娘として生まれた千姫。 彼女と縁のあるお寺が京都市東山区に建っています。 そのお寺は、知恩院です。
江戸時代には、京都にたくさんの大名の屋敷が置かれました。 幕末に活躍した長州藩、土佐藩、薩摩藩はもちろんのこと、あまり聞いたことがない藩の屋敷もありました。 そんな聞いたことがない藩の典型とも言える丹波亀山藩の京屋敷跡が、地下鉄四条駅と五条駅の間の中野之町(なかののちょう)にありました。
京阪電車の三条駅をよく利用する方はご存知と思いますが、この駅の近くには、土下座している像が置かれています。 土下座しているのは、高山彦九郎という江戸時代中期の人物です。 ところで、三条駅の高山彦九郎の像は、なぜ土下座をしているのでしょうか。
江戸時代、京都にはたくさんの大名の藩邸が置かれました。 薩摩藩、長州藩、土佐藩といった幕末に活躍した藩の藩邸はもちろんのこと、それ以外の藩邸も存在していました。 その中には、100万石を有する大藩の加賀藩の藩邸もありました。
「花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて退きも退いたり加護島へ」 上のわらべ歌は、大坂夏の陣の終戦後に流行したものです。 豊臣秀頼は、元和元年(1615年)に大坂城で自害し、真田幸村も戦死したことになっています。 しかし、実は、幸村は大坂夏の陣で戦死せず、秀頼を連れて鹿児島に落ち延びたとも伝えられています。
京都市左京区の平安神宮近くに本妙寺という小ぢんまりとしたお寺が建っています。 この付近は、本妙寺と同じくらいかそれよりも小さいお寺がたくさん建っているので、車の通りは多いのですが、京都らしさを感じることができます。 本妙寺は、観光寺院という訳ではないのですが、忠臣蔵と関係があるお寺なので、紹介しておきたいと思います。