
興聖寺にある道元禅師と永井家の墓所
京都府宇治市にある興聖寺は、江戸時代の慶安2年(1649年)に江戸幕府の譜代大名である永井尚政が、万安英種を迎えて再興された曹洞宗のお寺です。 興聖寺は、血天井でも有名ですが、当寺に参拝した時には、境内の裏側の墓所にもお参りしたいですね。
観光名所、史跡、四季折々の風景を写真とともに紹介するブログ。※アフィリエイト広告を利用していますがポップアップ広告は表示されません。
京都府宇治市にある興聖寺は、江戸時代の慶安2年(1649年)に江戸幕府の譜代大名である永井尚政が、万安英種を迎えて再興された曹洞宗のお寺です。 興聖寺は、血天井でも有名ですが、当寺に参拝した時には、境内の裏側の墓所にもお参りしたいですね。
11月上旬。 京都市中京区の本能寺に参拝した後、南東に約5分歩き、瑞泉寺にも参拝しました。 瑞泉寺は、木屋町三条にひっそりと建つお寺です。 当寺がある地は、豊臣秀次とゆかりがあり、歴史的にも重要な場所です。
京都市中京区の木屋町二条から鴨川と並行するように南に向かって高瀬川が流れています。 高瀬川は江戸時代の始めに角倉了以(すみのくらりょうい)が開削した運河で、伏見まで続いており、当時の京都の物流を支える重要な役割を果たしていました。 近世の京都の物流を支えた高瀬川 その高瀬川には、荷物の積み下ろしをする船入と呼ばれる船溜まりがあり、二条から四条の間に9ヶ所作られました。
学問の神さまを祀る北野天満宮は、社殿が八棟造(やつむねづくり)と呼ばれる構造になっています。 八棟造は、後に日光東照宮など徳川家ゆかりの建物に継承されたことから、権現造(ごんげんづくり)とも呼ばれています。 徳川家康は、死後、東照大権現という神号を後水尾天皇から賜っていますから、権現造は、そこから来ているんですね。 一般的には権現造で知られる八棟造ですが、日本最古の八棟造が、実は北野天満宮の社殿なのです。
毎年8月16日に京都では五山の送り火が行われます。 盂蘭盆(うらぼん)に家にお精霊さん(おしょらいさん)と呼ぶ先祖の霊を迎え、おもてなしをした後、8月16日にあの世に送り返します。 五山の送り火もまた、先祖の霊をあの世へ送る行事であり、京都の夏の終わりの風物詩となっています。 この五山の送り火は、昔から京都で行われていた行事ではあるのですが、その起源がいつなのかは、はっきりとしていません。
現在の京都の玄関口となっているのは、下京区の京都駅です。 国内だけでなく、海外からも京都にお越しになる人が増えていますが、京都に入る場合、ほとんどの方が京都駅を利用します。 ところで、京都駅は、昔から京都の玄関口だったのでしょうか。 実は、江戸時代には、京都駅から3kmほど北にある三条大橋が京都の玄関口でした。
江戸時代の俳人である松尾芭蕉の弟子に向井去来(むかいきょらい)がいます。 向井去来は、京都の嵯峨にある落柿舎(らくししゃ)を営んだ人物であり、松尾芭蕉も元禄2年(1689年)に初めて訪れて以来、落柿舎に合計3回訪問しています。 松尾芭蕉が嵯峨日記を書いた場所は、落柿舎ですね。 京都の向井去来の遺跡としては、落柿舎が有名ですが、左京区の真如堂(しんにょどう)にも向井去来の句碑があります。
京都市上京区の京都御苑の西側にイノシシで有名な護王神社が建っています。 その護王神社の北門近くの歩道には、水戸藩邸跡を示す石碑があります。 この辺りは、江戸時代には、徳川御三家の一つであった水戸藩の京都藩邸があった場所です。
京都は、長い歴史の中で、数々の芸術家を輩出してきた地です。 江戸時代中期に活躍した画家の尾形光琳もまた京都の生まれです。 その尾形光琳の菩提所は、京都市上京区の妙顕寺の東にあった興善院で、現在は泉妙院というお寺が建っています。
日本でもっとも有名な繁華街はどこでしょうか。 そのような統計があるのかは知りませんが、東京の銀座は、関東に住んでいない人でも知っている繁華街ですから、日本で最も知られた繁華街の一つだと思います。 その銀座。 実は、発祥は京都市伏見区なのです。