坂本竜馬と中岡慎太郎が眺めている京都市街・京都霊山護国神社
京都市東山区の霊山(りょうぜん)に京都霊山護国神社が建っています。 霊山には墓地があり、そこには、明治維新のために尽くした志士1,356名の御霊が祀られており、その中には、坂本竜馬と中岡慎太郎のお墓もあります。 今まで、一度は京都霊山護国神社の墓地に行ってみようと思っていましたが、なかなか機会がなく行けていませんでした。 このままだと、一生行かないなと思ったので、先日、時間をとって京都霊山護国神社にお参りをしてきました。
京都市東山区の霊山(りょうぜん)に京都霊山護国神社が建っています。 霊山には墓地があり、そこには、明治維新のために尽くした志士1,356名の御霊が祀られており、その中には、坂本竜馬と中岡慎太郎のお墓もあります。 今まで、一度は京都霊山護国神社の墓地に行ってみようと思っていましたが、なかなか機会がなく行けていませんでした。 このままだと、一生行かないなと思ったので、先日、時間をとって京都霊山護国神社にお参りをしてきました。
京都市東山区の祇園界隈を歩いていた時に安井金比羅宮の前を通りかかったので、ちょっとばかり境内の様子を見ていくことに。 ここは、縁切りと縁結びのご利益がある神社なので、女性の参拝者が比較的多いところです。 信号待ちをしている間にも東の鳥居からちらほらと若い女性の方が出てきます。
毎年1月から2月中旬まで、京都の16の神社で、「京都十六社朱印めぐり」が行われています。 16の神社のどこかにお参りに行けば、案内が置いてあるので、それを読むと内容がわかるのですが、ちょっとだけ説明しておきます。 京都十六社めぐりは、16の神社にお参りをして朱印帳に16ヶ所全部の朱印を押してもらうと、その年の干支の置物を授かれるというものです。 朱印帳は各神社で無料でいただくことができ、朱印は1ヶ所300円となっています。 今回の記事では、16社を地域別に簡単に紹介します。
京都市中京区の押小路通と釜座通が交差するあたりに東三条院址(とうさんじょういんし)の石碑を発見しました。 腰よりも低い石碑なので、普通なら見向きもせずに通り過ぎてしまうのですが、近くに京都市の説明書が立っていたので、近寄ってじっくりと観察することにしました。 ここはどうやら平安時代に貴族の屋敷があった場所のようです。
毎年1月15日から19日に京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で、厄除大祭が行われます。 また、19日には、古いお札やお守りが炊き上げられる焼納神事が催されます。 参拝者には、厄除開運餅が先着1,500名に振る舞われるということなので、19日の午前10時過ぎに石清水八幡宮を訪れました。
文久3年3月11日の孝明天皇の賀茂行幸で、外国人を日本から追い出すための攘夷祈願(じょういきがん)が行われた後、今度は、八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)への行幸が行われることになりました。 石清水行幸では、幕府に外国人を追い払う攘夷実行を誓約させることが目的で、画策したのは賀茂行幸と同じく長州藩とそれに加担する公卿たちでした。
文久2年(1862年)2月。 孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)が14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)に嫁ぎました。 これは、幕府が国難を乗り切るために朝廷と力を合わせる公武合体を実現するために求めたもので、朝廷は、幕府の政治体制の改革、将軍家茂の上洛、外国人を日本から追い出す攘夷(じょうい)の決行期日と具体策の策定を条件に和宮を嫁がせることを承諾しました。 幕府は、この条件を飲んだため、翌文久3年に将軍家茂が上洛することとなります。
京都市中京区の壬生寺(みぶでら)にお参りをした後、近くに建つ梛神社(なぎじんじゃ)にも立ち寄りました。 梛神社は、壬生寺から阪急大宮駅に向かう途中にあるので、ついでにお参りをするには、ちょうど良い立地です。 四条通に面しているため、人の出入りが多そうな神社なのですが、意外と参拝者はまばらで、のんびりとお参りすることができます。
久しぶりに京都市中京区の壬生寺(みぶでら)にお参りしてきました。 特にこれといった理由があったわけではありませんが、境内に弁財天が祀られていることに気付いたので、2013年が巳年ということもあり、短い時間ではありましたが、参拝しておきました。
京都市左京区に金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)というお寺が建っています。 境内の東の小高い丘には、塔頭(たっちゅう)の西雲院(さいうんいん)が建ち、そこには、幕末に京都で亡くなった会津藩士たちの墓所があります。 墓所に埋葬された会津藩士は352名。そのうち237名が文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)に亡くなった藩士たちで、残り115名は慶応4年正月に起こった鳥羽伏見の戦いで戦死した藩士たちです。 鳥羽伏見の戦いで会津藩は、旧幕府軍に属し、新政府軍と戦って負けています。 会津藩の戦死者は、戦場に野ざらしとされていましたが、会津藩の仲間(ちゅうげん)であった...