京都の歴史一覧

藤原氏全盛期に紫式部が源氏物語を書けたのはなぜか?

源氏物語は、平安時代に紫式部が書いた小説です。 この小説は、世界で最初に書かれた長編小説として文学界では大変重要な意味を持っています。 源氏物語の主人公は光源氏で、彼の女性遍歴や出世していく様子が物語の中で描かれています。 ところで、紫式部は、なぜ小説の題名を源氏物語としたのでしょうか。 おそらく、主人公が光源氏だから、そのような題名にしたのだと思いますが、私が述べたいのはそういうことではなく、源氏をなぜ主人公にしたのかということです。

京都の米騒動で大騒ぎとなった長徳寺

一揆。 この言葉から連想するのは、江戸時代や戦国時代に貧しい農民が徒党を組んで、時の権力者に反抗することではないでしょうか。 時代劇でも、その場面が出てくることがあるので、江戸時代以前の出来事のように思っている人が多いはず。 でも、一揆は近代になってからも起こっています。 その代表例は、大正7年(1918年)8月に起こった米騒動で、京都でも大きな騒ぎとなりました。

後白河上皇と二条天皇が幽閉された平安宮一本御書所跡

二条城の北は、平安時代、平安宮の内裏があった場所です。 その南東には一本御書所(いっぽんごしょどころ)と呼ばれていた施設がありました。 一本御書所は、天暦2年(948年)頃から貞信公記(ていしんこうき)などの文献に登場するようになります。 その役割は、世間に流布する書籍を一部ずつ書き写して保管していたとされています。 他に一本書と呼ばれる1冊しかない本を納めさせて保管していたという説もありますね。 歴史的事件としては、平治の乱(1159年)と深く関係しています。

六波羅蜜寺の境内にある六波羅探題府の石碑

京都市東山区の京阪電車の清水五条駅から少し東に六波羅蜜寺が建っています。 この辺りは、平安時代や鎌倉時代には六波羅と呼ばれた一帯です。 歴史的には、平安時代末期に平家の邸宅が建ち並んだ六波羅第があった場所としてよく知られていますね。 また、鎌倉時代には、六波羅探題が置かれた場所でもあります。

昔は奈良の興福寺に属していた八坂神社

京都市東山区の四条通の東の端に八坂神社の朱色の楼門が建っています。 この楼門を見ると、祇園に来たなと思うんですよね。 おそらく、旅行で京都に訪れた方が、この楼門を見ると京都らしさを感じるのではないでしょうか。 八坂神社は、貞観元年(876年)に奈良の興福寺の円如が創建した天神堂が始まりと伝えられています。 なので、八坂神社は、当初は興福寺の末社だったのですが、ある事件を機に比叡山延暦寺に属することになりました。

五山十刹から外れた大徳寺

鎌倉時代や室町時代に臨済宗のお寺は格付けがされていました。 五山十刹(ござんじっさつ)というのがそれです。 このような格付けは、南宋の官寺制度を範にしたもので、鎌倉幕府の執権であった北条貞時から始まっています。 鎌倉の浄智寺を五山に列したのが始まりで、その後、京都五山が指定され、室町時代になると、五山の下に十刹、その下に諸山が作られました。 京都五山は、南禅寺を別格として、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺と続きます。 大きな禅寺ばかりですね。 でも、よく見ると、五山に入っていても良さそうなお寺の名が見当たりません。 大徳寺が忘れられていませんか。...

御霊神社に桓武天皇と深い関係があった人々が多く祀られているのはなぜ?

京都市上京区に上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)という神社が建っています。 また、上御霊神社から南東に15分ほど歩くと、下御霊神社という神社も建っています。 両社は、ともに「御霊」という文字が社名に入っているので、創建された目的は同じです。 その目的とは、怨霊の祟りを鎮めるためです。 平安時代、非業の死を遂げた人々が怨霊となって、疫病や洪水などの災いをもたらすと考えられていました。 そして、こういった災いから、京都を守るためには、怨霊を神社に祀って御霊に変えれば良いとされていました。 この信仰を御霊信仰といいます。 上御霊神社も下御霊神社も、祭神として...

大堰川の由来となった葛野大堰を造った秦氏

昔から京都の中心は四条烏丸でした。 四条烏丸が、京都の中心となった理由のひとつに鴨川が近くを流れていたということが挙げられます。 川の近くに文明が発達しやすいというのは、京都でも同じだったんですね。 さて、京都を流れる川は鴨川だけではありません。 市内の西を流れる大きな川に桂川がありますね。 この桂川の流域でも、古代に勢力を伸ばした豪族がいました。 それは、秦(はた)氏です。

今も昔も京都経済の中心だった四条烏丸

京都の歴史といった場合、多くの人が平安京以降を思い浮かべるのではないでしょうか。 でも、京都が歴史的に注目が集まるのが平安時代以降ということであって、それ以前には京都に何もなかったわけではありませんし、人が住んでいなかったわけでもありません。 現在、京都の経済の中心となっているのは四条烏丸で、この辺りには多くの金融機関が建ち並んでいます。 全国的に有名な銀行や証券会社の他にも、京都に特化した会社なんかもありますね。 四条烏丸の発展は、近代からではありません。 実は、平安遷都(794年)以前から、四条烏丸は京都の中心として栄えていたのです。