新撰組を脱走した山南敬助が眠る光縁寺

慶応元年(1865年)2月21日。

ひとりの新撰組隊士が脱走しました。

その隊士の名は、山南敬助(やまなみけいすけ)。

山南敬助は、局長の近藤勇(こんどういさみ)に次ぐ総長の役職にありました。

組織ナンバー2の山南敬助が脱走したのは、何が原因だったのでしょうか。

新撰組結成前からの同志

山南敬助は、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の使い手でした。

江戸では、鏡心明智流(きょうしんめいちりゅう)、神道無念流(しんとうむねんりゅう)と並び一流の流派とされていました。

その北辰一刀流の使い手だった山南敬助は、多摩の試衛館道場で天然理心流を教えている近藤勇と出会い、以後、食客として試衛館道場に居つくことになりました。

その後、14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛に際し、江戸で浪士隊の募集があり、これに近藤勇以下試衛館道場の門下生も応募します。

そして、京都に到着すると、浪士隊と決別し近藤勇一派は、芹沢鴨(せりざわかも)たちとともに新撰組を結成、会津藩の後ろ盾で京都の治安を守る任務に就きました。

もちろん山南敬助も京都の治安を守るために働いていました。

新撰組結成前から近藤勇と親しかった彼が、ある日、手紙を置いて脱走したのですから、隊士の間にも衝撃が走ったことは言うまでもありません。

屯所の西本願寺移転が原因か

山南敬助が脱走する直前、新撰組では隊士が増え、これまで屯所として利用していた八木邸と前川邸が手狭となっていました。

そこで、副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)が西本願寺に屯所を移転することを計画します。

西本願寺を屯所して選んだのは、広いというだけでなく、当寺が蛤御門(はまぐりごもん)の変の際、京都に乱入した長州藩士をかくまっていたことが理由とされています。

西本願寺としても、この事実を突きつけられたら新撰組の要求を断ることができません。

しかし、お寺に新撰組の屯所を置くのはよろしくないのでは、という意見もありました。この立場に立って屯所移転を反対したのが山南敬助でした。

西本願寺への屯所移転をすすめようとする土方と山南は激しくぶつかり合います。近藤勇も屯所移転をしたかったので、山南を説得しましたが、彼は、なかなか意志を曲げようとはしません。

そして、山南敬助は遂に置手紙を残し、新撰組を脱走してしまいました。

これが山南敬助が脱走した理由とされていますが、他にも新たに新撰組に加入した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)の影響もあったのではないかといわれています。

伊東は、山南と同じ北辰一刀流の使い手で、天皇のために働き外国人を日本から追い出そうという尊王攘夷(そんのうじょうい)の思想を持っていました。

もともと山南も、尊王攘夷の思想を持っていましたが、伊東とつきあうことでその思いが強くなり、新撰組が尊王攘夷を唱える浪士たちを取り締まっていることに堪えられなくなって脱走したのではないかとも考えられています。

大津宿で捕えられる

山南敬助の脱走を知った近藤勇と土方歳三は、急ぎ追っ手を差し向けます。

その追手となったのは、沖田総司。

沖田は、優しい人柄の山南を慕っており、山南も沖田を弟のようにかわいがっていました。

その沖田を追っ手に差し向けたのは、近藤と土方が山南を発見しても逃がしてやるように指示していたからと言われていますが、真相は明らかではありません。

沖田が、山南を発見したのは、京都から10kmほどしか離れていない大津宿でした。

本気で脱走をしようと考えていたのなら、もっと急いで遠くに逃げていてもおかしくないはず。

しかも山南は、追ってきた沖田に向かって自分から声をかけたとされています。

この時の山南の行動には、数々の疑問がありますが、詳しいことはわかっていません。

規律違反で切腹

沖田総司とともに京都に戻った山南敬助は、2月22日に前川邸で監禁されました。

新撰組では、脱走したものは切腹という決まりがあったので、山南も切腹させられることは間違いありません。

試衛館以来の同志だった永倉新八は、こっそりと逃がしてやろうとしましたが、山南はこれを断り、その代わりに島原の芸者の明里(あけさと)に手紙を渡してくれるように頼みました。

2月23日。

山南は明里と対面した後、切腹しました。

享年33歳。

介錯を勤めたのは沖田総司だったと伝えられています。

光縁寺にある山南敬助の墓

切腹した山南敬助は、京都市下京区の光縁寺に埋葬されました。

光縁寺

光縁寺

光縁寺の近くには、新撰組の馬小屋があり、山南は毎日、門前を往来していました。

山門には、山南の家紋と同じ「丸に右離れ三つ葉立葵」の瓦がありました。

それが縁となって、山南は当寺の住職良誉と親しくなり、切腹した隊士は山南の紹介で光縁寺に埋葬されるようになりました。

そして、山南敬助は、切腹した3人目の隊士として光縁寺の墓地に葬られました。

現在、光縁寺では、新撰組隊士の供養のためのお墓参りができるようになっています。

供養料は100円。

お墓参りの際は、近所迷惑にならないように静かにしましょう。

複数並ぶ新撰組隊士の墓の中には、山南敬助のものもあります。

山南敬助の墓

山南敬助の墓

光縁寺に埋葬された新撰組隊士は、後に改葬された者も含めて28名だそうです。

なお、光縁寺の詳細については以下のページ参考にしてみてください。

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