寿永4年(1185年/元暦2年)3月の壇ノ浦の戦い後に長楽寺で出家した建礼門院徳子は、しばらくして吉田山の庵に移ります。
しかし、吉田山は都から近く、高倉天皇の中宮であり、安徳天皇の母であった彼女の哀れな姿を見ようと野次馬が覗き見しにくることもありました。
そこで、彼女は、同年9月に都から離れた山奥の大原に隠棲することにしました。
大原御幸
建礼門院は、大原の寂光院に入寺し、滅亡した平家一門と安徳天皇の菩提を弔いながら、日々暮らしていました。
そんな同じ毎日が続く中、文治2年(1186年)4月20日に彼女のもとを訪れた人物がいました。
それは、彼女の舅の後白河法皇でした。
あいにく法皇が庵を訪れた時、建礼門院は不在で、宮中から彼女に仕えていた阿波内侍(あわのないし)が応対しました。
ちなみに阿波内侍は、平治の乱で討ち死にした藤原信西(ふじわらのしんぜい)の娘です。
法皇が庵の中でしばらく待っていると、花摘みから建礼門院が帰宅しました。
彼女は、客人が誰なのか、初めはわかりませんでしたが、それが後白河法皇であることがわかると、両目から玉のような涙があふれ出ました。
法皇は、自分にとって舅ではあるものの、源氏と組んで平家を滅亡に追い込んだ張本人。
彼女の気持ちは複雑だったことでしょう。
その後、後白河法皇は、建礼門院と何気ない話をし、大原を後にしました。
寂光院に残る建礼門院の史跡
現在、大原に建つ寂光院には、建礼門院の史跡がいくつか残っています。
下の写真に写っている汀(みぎわ)の桜は、大原御幸(おおはらごこう)の際に後白河法皇が詠んだ歌に登場します。
以下が、その時に詠んだ歌です。
池水に 汀の桜 散りしきて 波の花こそ さかりなりけれ
意味は、「散った桜の花が、池の中で満開に咲いていることよ」といった感じです。
私が寂光院に訪れたのは秋だったので、桜の木の枝は寂しい状態となっていました。
下の写真に写っているのは、諸行無常の鐘楼です。その名が平家物語を連想させます。
寂光院の境内の隣には、建礼門院徳子大原西陵があります。
建礼門院が大原に隠棲したのは30歳の時で、その後、59歳でこの地で亡くなったと伝えられています。
大原バス停から寂光院までの道の途中には、朧(おぼろ)の清水(しみず)があります。
建礼門院が、おぼろ月夜に水面に映った自分の顔がやつれていたことに嘆いたと伝えられています。
思ひきや 深山(みやま)のおくに すまひして 雲井の月を よそに見むとは
上の歌は、建礼門院が大原で隠棲しているときに詠んだものだそうです。
かつて宮中で見た雲間の月をこのような山奥で見ることになるとは思わなかったという心情が詠まれています。
他にも寂光院には、建礼門院御庵室跡の石碑や平家物語関連の展示物を鑑賞できる宝物殿もありますよ。
なお、寂光院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。