京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)の参道に翠紅館(すいこうかん)という建物が建っていました。
翠紅館は、もともと西本願寺の別邸でした。
幕末には、勤王の志士と呼ばれた多くの人物が、ここで会議を行っています。
攘夷実行の方法を検討
嘉永6年(1853年)に浦賀にペリーが来航してから、国内では、外国人を日本から追い出そうという運動が盛んになります。
この考え方を攘夷(じょうい)といいます。
そして、攘夷は、天皇を敬う尊王という考え方と結びつきます。
攘夷と尊王がなぜ結びついたのか。
それは、当時の天皇であった孝明天皇が、大の外国人嫌いだったことと関係があります。
外国人を追い払う攘夷は、孝明天皇の意思を尊重したことになり、見事、外国人を追い出すことに成功すれば、孝明天皇も喜ぶと考えられたのです。
この尊王攘夷の急先鋒となったのが、長州藩の久坂玄瑞(くさかげんずい)や土佐藩出身で土佐勤王党の首領の武市半平太(たけちはんぺいた)でした。
上の2人は、攘夷運動が過熱した文久3年(1863年)1月27日に長州藩士の井上聞多(いのうえもんた/後の馨)ら多数の志士と翠紅館で攘夷実行の会議を開いています。
その甲斐あってか、4月に長州藩の画策によって、幕府は攘夷実行の日を5月10日と決めます。
そして、5月11日に長州藩は、下関を通過した外国船に砲撃を開始しました。
また、同年6月17日にも、長州藩の桂小五郎や久留米の神官の真木和泉などが翠紅館で会議を開いています。
これらの翠紅館で行われた会議は、翠紅館会議と呼ばれています。
長州藩の失脚
このように尊王攘夷を唱える志士達の計画は、思い通りに進んでいったように見えましたが、この年の8月18日に情勢が一変します。
京都で、幅を利かせていた長州藩を疎ましく思っていた公家や幕府、薩摩藩によって長州藩の追い落としが始まったのです。
これが後に八月十八日の政変と呼ばれるクーデターで、御所の警護を担当していた長州藩は、一夜にして京都から追い出されてしまいました。
この辺りのことについては、以下の過去記事で紹介していますので、ご覧になってください。
この後、長州藩は、外国艦隊に砲撃されたり、幕府から長州征伐を受けるなど、厳しい立場に追い込まれていきました。
また、翠紅館会議に出席していた重要人物も非業の死を遂げていきます。
久坂玄随と真木和泉は、翌年の蛤御門(はまぐりごもん)の変で戦死。
武市半平太も八月十八日の政変で政局が一変したことで投獄され、後に切腹しています。
現在、翠紅館は「京大和」という料亭となっていて、入り口には、翠紅館の説明書や石碑がいくつか置かれています。
なお、翠紅館跡の詳細と地図は、京大和の公式ホームページをご覧になってください。