毎年8月16日は、京都で五山送り火が行われます。
お盆に迎えた先祖の霊を再びあの世に戻すのが五山送り火です。
五山送り火の起源はよくわかっていませんが、室町時代に8代将軍の足利義政が始めたとも言われています。
足利義政が五山送り火を始めたとすれば、如意ケ岳の大文字、大北山の左大文字と、大文字が2つ存在する理由の説明がつきます。
足利義尚の冥福を祈った如意ケ岳の大文字
如意ケ岳の大文字は、足利義政が早逝した我が子義尚の冥福を祈るため、五山僧の横川景三(おうせんけいさん)が定めたとする説があります。
五山送り火を始めたのが足利義政だとすると、如意ケ岳はとても重要な意味を持ってきます。
そのふもとには、彼が建てた銀閣寺があるからです。
足利義政が、銀閣の前身である東山山荘を造営したのは文明14年(1482年)です。
そして、足利義尚が亡くなったのは、その7年後の長享3年(1489年)です。
足利義政が、我が子の霊をあの世に送るため、自らが営む山荘の裏山に「大」の文字を焚かせたのだと考えると、五山送り火が始まったのは足利義政の時代だったとする説がしっくりときます。
大北山のふもとに建つ金閣寺
もう一つの大文字である左大文字は、大北山で焚かれます。
なぜ、大北山にも大文字が焚かれるのでしょうか。
その理由として、作家の井沢元彦さんの著書『天皇になろうとした将軍』に興味深いことが書かれています。
室町幕府3代将軍の足利義満は、巨大な権力を手にし、ついに天皇家を乗っ取ろうとするところまでたどりつきました。
しかし、天皇家乗っ取りまであと一歩というところで病死してしまいます。
足利義満の死は、あまりにタイミングが良すぎることから、おそらく暗殺だろうと井沢さんは指摘しています。
もしも暗殺されたとすれば、足利義満は非業の死を遂げたことになります。
平安時代には、偉い人が非業の死を遂げた場合、その怨霊が悪さをしないように御霊として神社に祀る御霊信仰が盛んでした。
室町時代にも、そのような風習が残っていたのなら、足利義満の霊も慰められなければなりません。
そのために焚かれたのが、左大文字だったのではないかと。
左大文字が焚かれる大北山のふもとには、足利義満が建てた金閣寺があります。
足利義政が、我が子の霊を慰めるため銀閣寺の裏山である如意ケ岳に「大」の文字を焚いたのなら、足利義満の霊を慰める場所は金閣寺の裏山である大北山が最も適していると考えるのが普通でしょう。
『天皇になろうとした将軍』では、足利義満の霊が鎮まる金閣の裏山に他人のための送り火が焚かれることはあり得ないと指摘しています。
金閣寺周辺は、義満のナワバリであり、別の霊のために送り火を焚くとタタリが恐ろしいからです。
銀閣寺の裏山に大文字、金閣寺の裏山に左大文字を焚くのは単なる偶然ではなさそうです。
足利義政は、義満を模範としていたことからも、大北山に左大文字を焚かせたのは彼ではないかと想像します。