京都市上京区の京都御苑の西側にイノシシで有名な護王神社が建っています。
その護王神社の北門近くの歩道には、水戸藩邸跡を示す石碑があります。
この辺りは、江戸時代には、徳川御三家の一つであった水戸藩の京都藩邸があった場所です。
大日本史の編纂にも使われた
地下鉄の丸太町駅から烏丸通を北に5分ほど歩き、護王神社の北東角にやってきたところで下長者町通を西に曲がると、水戸藩邸跡の石碑が立っています。
石碑の後ろには、「此付近水戸藩邸跡」と記された説明書があります。
説明書には、この付近、烏丸通下長者町西入北側に水戸藩邸があったと書かれています。
石碑の北側には、ホテルの京都ガーデンパレスや放送局のKBS京都がありますが、江戸時代には、それらの敷地に水戸藩邸の建物が建っていたようですね。
藩邸が置かれたのは、江戸時代の前期で、貞享3年(1686年)の地図「旧藩々上邸箇所」に記されており、敷地は千三百二坪(約4,300平方メートル)の広さがありました。
4,300平方メートルということは、1辺が約65メートルあったことになりますから、ホテル1棟分程度の敷地だったようです。
江戸時代には、水戸黄門でおなじみの藩主水戸光圀が大日本史の編集の事業のため、京都に多数の係員を派遣し、編集の資料を集めさせました。
京都の水戸藩邸は、その事業の拠点となり、借用資料の筆写も藩邸で行われたとのこと。
蛤御門がすぐ近く
水戸藩邸跡の東には、京都御苑があり、その敷地内に京都御所が建っています。
京都御所の外郭には、御所九門と呼ばれる以下の9つの門があります。
- 北側:今出川御門
- 東側:石薬師御門、清和院御門、寺町御門
- 南側:堺町御門
- 西側:乾御門、中立売御門(なかだちうりごもん)、蛤御門(はまぐりごもん)、下立売御門(しもだちうりごもん)
これら御所九門のうち蛤御門を警備していたのが、水戸藩でした。
蛤御門の正面に水戸藩邸があったので、水戸藩がここを警備するのは都合が良かったのでしょうね。
ちなみに堺町御門を警備していたのは長州藩でしたが、文久3年(1863年)の八月十八日の政変で警備を解かれ京都を追放されています。
その1年後の元治元年7月に長州藩が兵を率いて上洛し、京都御所に乱入しようとしました。
会津藩や薩摩藩が、京都御所を守っていましたが、その時、激戦となったのが蛤御門でした。
ゆえにこの時の事件を蛤御門の変といいますが、藩邸の目の前で戦闘を始められた水戸藩士たちは、どう思っていたのでしょうか。
同じ時期、水戸藩では天狗党が挙兵しましたが、彼らと長州藩との間に密約があったとも噂されています。
幕末、国内で、天皇を助け、外国人を打ち払おうとする尊王攘夷の思想が過熱しましたが、その尊王攘夷の総本山とされるのが水戸藩でした。
嘉永6年(1853年)の黒船来航以来、水戸藩士たちは国事に奔走し、京都でも孝明天皇から幕政改革の勅書(戊午の密勅)を受けるなど活躍しました。
しかし、一方で、水戸藩は幕末に多大な犠牲を払ったため、明治維新のころには人材が底をつきた様な状態となり、いつの間にか政治の舞台から消え去っていきました。
東山区の長楽寺には、幕末に命を落とした藩士たちのお墓があります。
京都の水戸藩邸は、明治初期に廃止となりました。
護王神社の前にある水戸藩邸跡の石碑は、大日本史の編集や幕末動乱の京都で活躍した水戸藩士の功績と比較すると、あまりにも小さく思えますね。