京都市東山区の東福寺には、退耕庵という塔頭(たっちゅう)が建っています。
退耕庵は、貞和2年(1346年)に東福寺第43世住持性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建されたので、南北朝時代にできたお寺です。
ところが、退耕庵には、それよりも古い平安時代に活躍した小野小町ゆかりの玉章地蔵(たまずさじぞう)が小町堂と呼ばれる地蔵堂に安置されています。
この玉章地蔵は、いったいどのような理由で退耕庵に祀られるようになったのでしょうか。
体内に恋文があったお地蔵さん
退耕庵は、JRまたは京阪電車の東福寺駅から南東に5分ほど歩いた場所に建っています。
玉章地蔵が祀られている小町堂は、山門をくぐった右側に建っています。
中には、2メートルのお地蔵さんと小町百歳像が安置されています。
小町堂内部を見ることはできますが、写真撮影は禁止です。
なので、玉章地蔵も小町百歳像も写真はありません。
玉章地蔵の体内には、艶書、つまり恋文がたくさん収められていました。
もちろん、小野小町にあてられたものです。
ゆえに玉章地蔵は、恋文地蔵とも呼ばれています。
絶世の美女と言われる小野小町は、深草少将の百夜(ももよ)通いの伝説があるように多くの男性から恋文をもらっていたとされています。
その恋文を小町は、玉章地蔵の中に入れていました。
もともと、玉章地蔵は、東山区の渋谷越えにあった小町寺に祀られていたのですが、明治8年(1875年)に退耕庵に移されました。
だから、南北朝時代に創建された退耕庵に玉章地蔵が祀られているんですね。
では、今も、玉章地蔵の体内には、恋文が収められているのでしょうか。
残念ながら、玉章地蔵が退耕庵に移された後、恋文が盗難にあったため、現在はお地蔵さんの体内に恋文は存在しません。
小町堂の前には、小野小町百歳井戸という井戸もあります。
この井戸の水面に年老いた自分の顔を映したのでしょうか。
小野小町ゆかりのお寺は、京都には他に随心院、補陀落寺(ふだらくじ)、欣浄寺(ごんじょうじ)があります。
小野小町に興味がある方は、これらのお寺にもぜひ参拝してください。
普段からひっそりとしている退耕庵なので、ここが小野小町ゆかりのお寺であることに気づく人はあまりいないように思います。
東福寺に参拝した際は、ぜひ退耕庵にもお参りをしてはいかがでしょうか。
なお、退耕庵の詳細については以下のページを参考にしてみてください。