本能寺の変(1582年)の後、織田政権の後継者となったのは羽柴秀吉でした。
しかし、これに織田信長の子の信雄(のぶかつ)は不満を持っていました。
織田家の後継者となるのは、信長と血がつながっている自分のはずなのに信長の家臣であった秀吉が織田家を乗っ取ろうとしていると思ったからです。
そこで、信雄は徳川家康に助力を頼み、秀吉と一戦交えることにしました。
小牧長久手の戦い
天正14年(1584年)に羽柴秀吉と織田・徳川連合軍との間で起こった合戦は、小牧長久手の戦いといいます。
この戦いは、織田・徳川連合軍が優勢でした。
合戦では徳川家康に勝てないと思った羽柴秀吉は、矛先を織田信雄に向けます。
信雄は、領国である伊勢の諸城を秀吉に攻略されると、戦線から離脱し本城の長島城に引き上げました。
秀吉は、この時とばかりに信雄に講和を申し入れ、信雄はこれに応じました。
戦う理由が無くなった家康も、兵を引き小牧長久手の戦いは終わります。
旭姫を家康に嫁がせる
小牧長久手の戦いの翌年、秀吉は関白となり、姓も羽柴から豊臣に改めます。
関白になった秀吉は、名目上は政治の実権を握りました。
しかし、天下を統一するためには、徳川家康をどうにかしなければなりません。
そこで、秀吉は家康に人質として次男の於義丸(おぎまる/後の結城秀康)を人質として差し出すように命じます。
家康は、この要求を受け入れました。
しかし、秀吉に臣従することは拒みます。
それならと、秀吉は、自分の妹の旭姫を家康に嫁がせることを思い立ちます。
旭姫は、すでに40歳を過ぎており、佐治日向守(さじひゅうがのかみ)と結婚していました。
秀吉は、佐治日向守に5百石の加増を提案し、旭姫との離縁を迫ります。
これに怒った佐治日向守は、旭姫を秀吉のもとへ返し、自分は浪人したと伝えられています。
秀吉は、実の妹まで人質として差し出したのだから、家康が大坂にあいさつに来るだろうと思っていました。
ところが、家康は、旭姫を妻としたものの、大坂まで行くつもりは全くありません。
こうなると秀吉は最終手段を使わざるを得ません。
実の母の大政所(おおまんどころ)を家康の元に送ったのです。
さすがにこれには、秀吉の家臣の蜂須賀正勝も、天下人が下の者に人質を出した例はないのだからやめるように進言しました。
しかし、家康さえ臣従してくれれば、天下統一は目と鼻の先と考えていた秀吉は、蜂須賀正勝の言を聞き入れませんでした。
さて、徳川の家中では、旭姫が嫁いできた際、偽者ではないかと疑っていました。
でも、大政所が到着し、旭姫と抱き合って再会を喜び合っているのを見て、秀吉が実の妹と母を人質に差し出したことを確信したと伝えられています。
旭姫の墓がある南明院
かくして家康は、秀吉に会いに行くことを決断し、天正14年10月26日に大坂に入りました。
その夜、家康の元にお忍びで秀吉が現れました。
秀吉は、家康の機嫌を取り、明日の正式な対面の時には自分に頭を下げて欲しいと頼みます。
そして、翌日、家康は秀吉との対面の時に深々と頭を下げたのでした。
家康に嫁いだ旭姫は、その後、天正18年に亡くなったと伝えられています。
京阪電車の鳥羽街道駅から東に3分ほど歩くと、東福寺の塔頭(たっちゅう)の南明院が建っています。
南明院の山門下には、旭姫のお墓があることを示す「徳川家康公正室旭姫墓」と刻まれた石碑があります。
徳川家康の正室は築山殿でしたが、旭姫が家康に嫁いだ時にはすでに亡くなっていました。
そのため、旭姫は、その後の正室(継室)となります。
秀吉の天下統一を陰で貢献した旭姫は、南明院で静かに眠っています。