京都市東山区には、昔ながらの京都の街並みが残る地域がいくつかあります。
その中でも、祇園の新橋地区は、国内外の旅行者に人気があります。
祇園では、今も舞妓さんを見かけることがありますから、昔ながらの町並みとともに江戸時代のような雰囲気を感じられますね。
井筒屋の建物
京阪電車の祇園四条駅から、北東に10分ほど歩くと、京都らしい風情を感じられる町家が並んでいます。
下の写真の左側に写っているのは、かつて井筒屋というお茶屋を営んでいた建物です。
井筒屋の説明書によると、井筒屋があった新橋界隈は、祇園発祥の地ということです。
寛文10年(1670年)に現在の八坂神社である祇園社領の中の弁財天町等の外六町、正徳2年(1712年)に元吉町、末吉町等の内六町が開かれ、今日まで一貫して繁栄してきました。
祇園は、江戸時代の町民の大衆文化である浮世草子や浄瑠璃、歌舞音曲の舞台となり、今も伝統芸能として継承発展しています。
幕末には長州藩士の高杉晋作が、芸妓の小梨花と遊んだとも言い伝えられている井筒屋は、平成元年(1989年)11月4日に京都市長より市制百年を祝し第1回「京都市都市景観賞」を受賞しています。
火除け地蔵
その井筒屋から、ほんの少し東に歩いた白川のほとりには、火除け地蔵を祀った祠があります。
近くの説明書を読むと、地蔵菩薩の代表的な10種類のご利益の中に火除けがあると記されていました。
地蔵菩薩信仰は、平安時代末期から広がり始め、鎌倉時代以降は広く民衆に浸透していきました。
今昔物語集には、地蔵菩薩にまつわる説話が32編書かれており、そのひとつにはお地蔵さまの化身である小僧が火事を知らせたという話もあります。
また、天明元年(1781年)に書かれた木室卯雲(きむろぼううん)の「見た京物語」には、「町々の木戸際ごとに石地蔵を安置す。これ愛宕の本地にて火ぶせなるべし。」と書かれており、江戸時代の愛宕山の地蔵が、火伏せの神として知られており、京都の町に「火除け地蔵」があったことがわかるそうです。
そう言えば、京都の町には、今も小さな祠にお地蔵さまが祀られていることがありますが、それには火除けの意味もあるのでしょうね。
辰巳大明神
井筒屋の南前に祀られているのは、辰巳大明神です。
説明書によれば、現在の辰巳大明神の地にあった旧家には、屋敷神として白蛇が祀られていたそうです。
旧家の移転に伴い、祠は地域に受け継がれ、白川に架かる巽橋(たつみばし)北詰の橋のたもとに祀られ、祇園の料理人が卵を供え、信仰していたと言われています。
戦後、巽橋の改修に伴い、祠は現在の辰巳大明神の場所に鎮座されました。
白蛇は、古来から弁天の遣いとされていたため、芸能への職能神・弁財天信仰として転化され、やがて飲食業者だけでなく、祇園の舞妓や芸妓が信仰するようになったそうです。
そして、技芸上達とともに無病息災や商売繁盛の氏神としても地域に信仰されるようになりました。
辰巳大明神では、年4回、1月には寒供養祭、2月には初午祭、7月には土用供養祭、11月にはお火焚き祭の神事が行われます。
また、毎年6月第1日曜日の正午に比叡山明王堂大阿闍梨が切廻りの途中に辰巳大明神に立ち寄り、放生会の行事も行われます。
大阿闍梨は、放生会の行事が行われる際に井筒屋の建物に立ち寄るそうです。
かつての祇園の町並みは、今では白川沿いの新橋通界隈に残る程度となっています。
京都の街は日々発展し、かつての町並みが失われている所もありますが、祇園白川のように昔ながらの景観が近代的な街の中に調和しながら残っている所もあります。
新しいものと古いものが混ざり合っているからこそ、京都らしい町並みと感じるのでしょうね。