叡山電車の一乗寺駅から南西に5分ほど歩いた辺りに通称赤の宮神社と呼ばれている賀茂波爾神社(かもはにじんじゃ)が建っています。
詳しい創建年代はわかっていないようですが、西暦900年頃の延喜年間には、この地に鎮座していたようです。
赤の宮神社の由来
賀茂波爾神社が、赤の宮神社と呼ばれているのには2つの説が存在しています。
一つ目の説は、古代、赤土を使って土器などを造っていた氏族の守護神として崇められていたことが由来とするものです。
そして、二つ目の説は、江戸時代に稲荷信仰と一緒になって鳥居や社殿などを真っ赤に染めたことが由来とするものです。
賀茂波爾神社の入り口に建つ朱色の鳥居を見ると、後者の説の方を信じたくなりますね。
高野川原開墾来歴碑
朱色の鳥居をくぐって、さっそく境内を散策。
と行きたいところなのですが、鳥居の右側に石碑が置かれているので、まずはこちらの説明書を読んでみることに。
この石碑は、「高野川原開墾来歴碑」というようです。
江戸時代、この辺りは高野川が氾濫すると人馬も通ることができないほど、荒れ果ててしまう状況でした。
そのため、誰も住まないようなところだったそうです。
ある時、大阪の豊後屋又兵衛がこの地を訪れました。又兵衛は、荒れ果てたこの地を見て開墾を志します。
ちょうどその頃、後水尾天皇が修学院離宮に行幸することになっており、又兵衛は私財を投じて、子の又四郎と近村の農民4人と行幸路を造りました。
その功績により、又兵衛は行幸路の左右の荒地を天皇より賜ります。
又兵衛達は、その地を開墾しますが、たびたび水害にあい、やがて農民たちは又兵衛から離れて行きました。
それでも、又兵衛は開墾を続け、その結果、やがて入植者も増えて繁栄していったそうです。
現在の一乗寺界隈の発展は、又兵衛のおかげだったんですね。
感謝しなければいけませんね。
権九郎さんも真っ赤
それでは、いよいよ境内の散策です。
鳥居をくぐり、まっすぐに進んで左に曲がると舞殿と本殿が現れます。
あまり広くないためか、人の姿はほとんどありません。
境内から湧き出している御神水を汲みにペットボトルを持った人が、何人か訪れていました。
有名な御神水なのでしょうか。
本殿の脇には、朱色の鳥居がたくさん建っています。
朱色の鳥居のトンネルということは、お稲荷さんでしょう。
鳥居を見上げると「権九郎稲荷神社」と書かれています。
このお稲荷さんは、昭和に入ってから地元の友禅の染色工場の社長さん達が創建したものだそうです。
繊維不況の際に願掛けをして財を築いた方がたくさんいたとか。
商売繁盛のご利益がありそうなので、しっかりとお祈りしておいた方が良さそうですね。
鳥居のトンネルをくぐっていくと下の写真に写っている小さな社殿が現れます。
地元の方は、権九郎さんと呼んでいるそうです。
赤の宮神社らしく権九郎さんも真っ赤ですね。
なお、賀茂波爾神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。