京都に建つお城と聞いてすぐに思いつくのは、中京区の二条城ではないでしょうか。
この二条城は、慶長8年(1603年)に徳川家康によって京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所として造営されたものです。
二条城と言えば、通常、徳川家康の二条城を指しますが、実は家康が二条城を造営する以前にも二条城が存在していたことをご存知でしょうか。
足利将軍家の邸宅
最初に建てられた二条城は、室町幕府13代将軍の足利義輝の邸宅でした。
義輝の邸宅は、現在の上京区武衛陣町に建てられました。地下鉄丸太町駅の近くですね。
しかし、義輝が永禄8年(1565年)に松永久秀と三好三人衆に暗殺された時に義輝の二条城は炎上しています。
一度は炎上した義輝の二条城でしたが、4年後の永禄12年に造営されています。
造営したのは織田信長。
目的は、15代将軍の足利義昭の邸宅とするためです。
義昭は、それまで本圀寺を宿所としていましたが、この年の1月に三好三人衆に襲撃されたことから、信長が彼の身を案じて二条城を造営することにしたのです。
場所は、義輝の二条城跡です。
造営には数年かかると思われていた義昭の二条城ですが、信長はわずか70日で完成させています。
また、造営には公家邸や寺社から強奪した庭石、墓石、五輪塔、灯篭、石仏などが使われ、発掘調査の際にそれらがゴロゴロと出土したそうです。
しかし、義昭の二条城も彼が将軍の座を追われると天正4年(1576年)に信長の手によって解体されました。
二条御新造の造営と焼失
義昭の邸宅の二条城が解体された後、信長はさらなる二条城を造営しています。
場所は二条衣棚。現在の地下鉄烏丸御池駅近くで、義昭の二条城があった場所の南の方角になります。
この二条城は、二条家の邸宅を譲り受けて改築した後、天正7年に正親町天皇(おおぎまちてんのう)の皇太子の誠仁親王(さねひとしんのう)に献上されました。
信長が誠仁親王に二条城を献上したのは、親王を次期天皇に即位させる目的があったからです。
誠仁親王の二条城は、信長が宿所としていた頃は二条御新造と呼ばれ、親王に献上された後は二条新御所と呼ばれました。
誠仁親王の二条城の歴史は短く、3年後の天正10年6月に炎上します。
その理由は本能寺の変です。
信長が本能寺で明智光秀に討たれた後、その報告を受けた嫡男の信忠は宿所の妙覚寺から誠仁親王の二条城に入城し、明智軍と戦いました。
しかし、信忠も明智軍にかなわず自害し、城も炎上したのです。
なお、誠仁親王の二条城については「京都府の城」というWEBサイトの以下のページに写真と地図が掲載されていますので、ご覧になってください。
離宮にもなった二条城
家康が造営した二条城以外は、どれも短命に終わっていますね。
豊臣秀吉も二条城を造営したようですが、現在は存在していません。
やはり、二条城と言えば家康が築城した現在の二条城をすぐに想像します。
二条城は、明治時代になってから朝廷の所有となりました。
その後、明治17年(1884年)に離宮となり、昭和14年(1939年)以降は京都市の所有となっています。
現在の二条城が元離宮二条城と呼ばれるのは、明治17年に離宮となったからなんですね。
なお、家康の二条城以外の情報については、以下のWEBサイトやブログで詳しく解説されていますので、ご覧になってください。
また、元離宮二条城の詳細については以下のページを参考にしてみてください。