京都に関する勘違いに「京都には大仏がある」といったものがあります。
大仏があるのは奈良で、京都には現在、大仏はありません。
京都やその近隣に住んでいる方は、わかっていることなのですが、京都から離れたところにお住まいの方は、意外と奈良と京都について勘違いされることがあるようです。
ただ、京都に大仏があるということも、あながち間違ってはいません。正確には、「京都にも大仏があった」ということになりますが。
豊臣秀吉が造った京都の大仏
京阪電車の清水五条駅から東に10分程度歩いたところに方広寺大仏殿跡があります。
実は、この場所に昭和48年(1973年)まで大仏があったのです。
京都の大仏を造ったのは、太閤殿下こと豊臣秀吉。
派手好きで知られる秀吉は、奈良の東大寺にある大仏よりも大きな大仏を京都に造ることを考えます。
天正14年(1586年)に東山東福寺付近で大仏造立を開始しますが、ほどなく中止されます。その後、工事が再開され、文禄4年(1595年)に大仏が完成しました。
この大仏の工事で必要となった金属類は、刀狩りによって調達されました。当時の農民たちから刀や槍を召し上げるのに都合のよい理由だったわけですね。
完成した大仏の高さは約19メートルで、それを入れる大仏殿の高さは50メートルもありました。2009年にお台場に現れたガンダムの高さが18メートルなので、それよりも大きかったことになります。ちなみに東大寺の大仏の高さは約15メートルです。
「京都人による京都案内」さんのブログの方広寺 幻の京の大仏さんのページに当時の大仏の大きさが描かれた絵の画像が掲載されています。そちらでどれだけ大きかったかがわかります。
しかし、この大仏は、なんと完成した翌年に大地震が発生し崩壊してしまいます。
ただ、大仏殿は崩れなかったため、善光寺の阿弥陀如来像を京都に移転して安置しました。しかし、この阿弥陀如来像はすぐに善光寺に戻され、再び、大仏造立が行われます。
その後、大仏は完成しましたが、開眼供養を行う前に慶長3年(1598年)に秀吉は亡くなります。そして、この大仏殿が豊臣家滅亡の引き金となっていったのです。
方広寺の釣り鐘と豊臣家の滅亡
秀吉の死後、大仏はどうなったかというと、慶長7年にまた火災によって焼失します。
ここからが豊臣家の滅亡の始まりとも言えるのですが、徳川家康は、豊臣家の財産を使い果たさせるために、秀吉の子・秀頼に大仏の再建を強く薦めました。
秀頼もその薦めに応じて再建を行い、慶長17年に大仏が完成します。
そして、大仏殿の総仕上げとして、慶長19年に釣り鐘が造られたのですが、その銘文に「国家安康」と「君臣豊楽」という2つの言葉がありました。
この言葉を見て、徳川家康に仕える金地院崇伝が豊臣家に、「これは家康を呪う言葉と豊臣の繁栄を願う言葉である」と言いがかりをつけ、大阪冬の陣が始まります。
そして、翌年の大坂夏の陣で豊臣家は滅びました。
派手好きの秀吉が造った大仏が豊臣家滅亡のきっかけを作ったというのは、なんとも皮肉なものですね。
方広寺の釣り鐘の銘文については、「京都観光研究所」さんのブログの方広寺の記事で写真が掲載されています。
その後、大仏はどうなったのか?
豊臣家の滅亡後も大仏は京都に残っていました。
しかし、この大仏には不運なことが度々起こります。
寛文2年(1662年)に、再び京都に地震が起こり大仏は崩壊します。崩壊した大仏に使われていた金銅は鋳つぶされて銅銭にされます。そして、寛文7年に木造の大仏が代わりに造られました。
この時に造られた大仏も約130年後の寛政10年(1798年)に落雷によって焼失してしまいます。
それでも、天保14年(1843年)に再び大仏が造られます。
しかし、この大仏も昭和48年に火災によって焼失し、現在も再建されていません。
今では、方広寺大仏殿跡となっており、近くには豊臣家滅亡の原因となった釣り鐘が残っています。
なお、方広寺の由緒については以下のページを参考にしてみてください。