一揆。
この言葉から連想するのは、江戸時代や戦国時代に貧しい農民が徒党を組んで、時の権力者に反抗することではないでしょうか。
時代劇でも、その場面が出てくることがあるので、江戸時代以前の出来事のように思っている人が多いはず。
でも、一揆は近代になってからも起こっています。
その代表例は、大正7年(1918年)8月に起こった米騒動で、京都でも大きな騒ぎとなりました。
騒ぎは富山県の魚津から全国へ
米騒動は、文字通り米に関わる騒動です。
政府が、この年の8月初めにシベリア出兵を決定すると、各地の米屋が値上げをはじめたり、売り惜しみをしたりして、米価が吊り上っていきました。
最初に民衆の反発が起こったのは、富山県魚津の漁村で、それは瞬く間に全国へと広まっていきます。
騒ぎが京都に及んだのは、8月10日のことでした。
東七条派出所に押しかけた人が、月々施米券が配られていたのに、米価が高騰しているにも関わらず施米券がもらえないのはおかしいと愚痴を言ったことが騒動の発端でした。
集まった群衆の中から、米屋を襲撃すれば米価が下がるかもしれないという声が出ると、それに刺激された人々が蜂起して東七条派出所を襲撃。
騒動は、現在の京都駅の辺りまで広がり、翌11日には京都市のほぼ全域に騒動が拡大しました。
出町柳駅付近が騒動の中心
京都市の騒動の中心は、現在の叡山出町柳駅付近やその近くに建つ長徳寺でした。
民衆の騒動は、警察だけでは鎮めることができなかったため、ついに軍隊が出動することになります。
ちなみに米騒動で最も早く軍隊が動いたのが京都府で、当時の府知事が騒動の前から伏見の第十六師団に出兵を要請していたことから、長徳寺付近での騒動は、12日の午前0時過ぎに鎮圧されました。
そして、同日に京都市内に夜間外出見合わせの注意書きが張り出されます。
しかし、京都市が外米の廉売や救済資金募集を始めたものの騒動は収まらず、結局、米騒動は京都府下へと広がっていきました。
京都で起こった米騒動は、被差別部落出身の人々が多く参加していました。
騒動のきっかけとなった東七条柳原町は、4年後の大正11年に設立され被差別部落解放を訴えた全国水平社の中央委員となった桜田規矩三(さくらだきくぞう)を輩出した町です。
同年3月3日に京都の岡崎で行われた水平社創立大会での水平社創立宣言は、日本最初の人権宣言として大きな意義を持っています。
現在、米騒動の中心となった長徳寺の門前には、見事なオカメ桜が植えられており、春になると通行人が思わず足を止めて、その花の美しさに見とれます。
オカメ桜が満開の時以外は、ほとんど人がいない長徳寺に100年ほど前に大勢の人が押し寄せたとは、とても想像できません。
なお、満開のオカメ桜については、以下の過去記事に写真を掲載していますのでご覧になってください。