現在、京都にはたくさんのお寺や神社があります。
寺社には、京都らしい建築物が多いので、国内だけでなく海外からもたくさんの旅行者が観光で訪れますね。
私も、よく京都のお寺や神社に観光目的で参拝することがあります。その時は、せわしない日常を忘れて心がスッキリとするというか、気持ちがとても和むんですよね。
このようなすがすがしい気持ちにさせてくれる寺社ですが、その中には、ドロドロの政治の世界と関わってきたからこそ、今日まで存続しているところがいくつもあります。
京都市左京区に建つ南禅寺も、そのひとつと言えるでしょう。
以心崇伝が復興
南禅寺は、鎌倉時代に創建された禅宗のお寺です。
禅宗のお寺は、武士からの崇敬が篤く、室町時代には、足利義満が五山十刹(ござんじっさつ)の制度を作り、禅宗のお寺を格付けしました。
五山の1位は右京区の天龍寺ですが、南禅寺は別格として五山の上に列せられるほどの待遇を受けていました。
しかし、南禅寺は、応仁の乱(1467年)によって衰退し、戦国時代には荒廃します。
この荒廃した南禅寺の再興に尽力したのが、以心崇伝(いしんすうでん)でした。
以心崇伝は、南禅寺の住持をつとめるとともに徳川家康に接近し、江戸幕府の政治顧問として活躍します。
豊臣家を滅亡に導いた方広寺の鐘銘事件を起こしたのも崇伝で、彼がいなければ江戸幕府は260年も続かなかったかもしれません。
崇伝は、その後も幕府の政治に深くかかわり、また、宗教界では禅宗を統括する僧録司(そうろくし)に就き禅宗界の頂点に立ちます。
そんな崇伝を当時の人々は黒衣の宰相と呼びました。
こうやって、崇伝の略歴を見ていると、権力にまみれたお坊さんという印象が強く、政治のドロドロとした世界で生きていたんだろうなと思ってしまいます。
でも、崇伝は、幕府の中枢で働きながらも、南禅寺の再興を着々と進めていきました。
応仁の乱で多くの伽藍を失った南禅寺でしたが、崇伝のおかげで、法堂(はっとう)、三門、唐門などの諸伽藍が再建されました。
また、南禅寺境内の南に建つ紅葉が美しい天授庵は、慶長7年(1602年)に細川幽斎が再建していますが、その背景には以心崇伝の影響力があったはずです。
秋には、紅葉狩りに訪れる人が多いこのお寺も、以心崇伝が幕府政治に深くかかわり、権力を持ったからこそ再建できたのかもしれませんね。
以心崇伝は、金地院崇伝(こんちいんすうでん)の名でも知られています。
彼が幼い時に南禅寺金地院に入寺していたことから、そう呼ばれるようになりました。
金地院は、寛永4年(1627年)に崇伝が大改築を行い現在に至っています。
また、同名のお寺は静岡県にもありますが、こちらも崇伝が徳川家康に駿府に招かれた時に建立したものです。
応仁の乱から始まった戦国時代。
この間に京都では、多くの文化財が失われました。
もしかすると、以心崇伝は、失われた文化財を復元する活動を行うために徳川家康に接近したのかもしれませんね。