現在の京都市上京区は、平安時代に平安宮内裏があった場所です。
二条城の北の辺りですね。
平安宮内裏跡とされる辺りを散策していると、それを示す石碑がたくさんあります。
どの石碑の近くにも、簡単な説明書が設置されているので、そこが平安時代にどういう場所だったのかを知ることができます。
以前に私も、この辺りを散策し、いくつか石碑を見て来たので、今回の記事ではそれらを紹介します。
承香殿跡
内裏のちょうど中心に建っていたのが、承香殿(じょうきょうでん)です。
現在では、町家が並んでいますね。
承香殿は、9世紀初頭の嵯峨天皇の頃に創建された建物で、内裏の後宮七殿五舎のひとつです。
東西7間、南北2間の規模の母屋に庇(ひさし)がめぐらされていたそうです。
東庇には、天皇の書物を保管する内御書所(うちごしょどころ)があり、10世紀の初頭には、醍醐天皇の命により、最初の勅撰和歌集である古今和歌集が、紀貫之らによって編纂されました。
弘徽殿跡
承香殿跡から少し西に歩くと弘徽殿跡(こうきでんあと)の石碑があります。
弘徽殿は、後宮七殿五舎のひとつで、女御・更衣の共同居住区だったそうです。
東西7間、南北2間の規模の建物で、清和天皇や陽成天皇の時代には一時的に天皇の居所にもなったということです。
昭陽舎跡
承香殿跡から東に昭陽舎跡があります。
昭陽舎は、後宮の七殿五舎のひとつで、庭に梨を植えたことから梨壺(なしつぼ)とも呼ばれていました。
建物は南北に2つ並んでいたそうです。
南の正舎は東西5間、南北2間の規模の母屋。北舎も東西5間、南北2間の母屋で四面に簀子(すのこ)がめぐっていました。
10世紀前半には、東宮敦良親王(あつながしんのう)の居所として用いられ、以後、東宮御所として使用されるようになったとのこと。
また、10世紀中頃には、梨壺の一郭に村上天皇の命で撰和歌所が置かれ、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)や清原元輔(きよはらもとすけ)らによって後撰和歌集が編纂されました。
なお、編纂者たちは、「梨壺の五人」と呼ばれています。
綾徽殿跡
承香殿跡から南東に5分ほど歩いたあたりにある料理屋さんの入り口に立つのは、綾徽殿跡(りょうきでんあと)を示す石碑です。
綾徽殿は、内裏の中心的建物である仁壽殿(にんじゅでん)の東に建っていた南北に長い建物です。
内裏十七殿のひとつで、宮中の舞などが行われた建物だそうです。
身舎(しんしゃ)は東西2間で、南北9間のうち南5間を納殿(おさめどの)として使用し、宮中恒例の行事に使用する御物などが納められていたとのこと。
宜陽殿跡
綾徽殿跡から少し南に歩くと駐車場があります。
その入り口付近に建っている石碑は、宜陽殿跡(ぎようでんあと)を示すものです。
宜陽殿は、紫宸殿(ししんでん)の東に会った建物で、軒廊(こんろう)でつながっていたそうです。
南北9間、東西2間の母屋で、内裏造営当初からあった建物だといわれています。
母屋は、塁代の御物が納められていた納所で、当時の一級品が保管されていたとか。
また、南庇には議所(ぎしょ)があり、叙位・除目(じもく)など公卿会議が行われていました。
他にも、周辺には平安宮内裏の史跡があります。
機会があれば、また周辺を散策して、この記事に平安宮内裏の史跡を追加していきます。