延元元年(1336年)6月30日に新田義貞率いる後醍醐天皇方の軍勢が、足利尊氏が布陣する東寺に総攻撃をしました。
しかし、この総攻撃は失敗に終わり、後醍醐天皇方は名和長年が戦死するなど、大きな打撃を受けます。
敗報は、翌日に東坂本の仮皇居にいる後醍醐天皇にもたらされ、公卿たちは大いに落胆しました。
佐々木道誉の2度の裏切り
東寺の足利軍は、戦いに勝ったものの、京都に入る街道を後醍醐天皇方に封鎖されている状況が続いていたため、まだ勝利に喜ぶことはできません。
物流を確保できなければ、食糧が底を尽き、京都から引き揚げなければならないからです。
そのような厳しい状況の中、佐々木道誉が足利尊氏を裏切り、後醍醐天皇に味方しました。
これにより、佐々木道誉は、後醍醐天皇から近江国の所領を安堵してもらうことができました。
しかし、この佐々木道誉の裏切りは、足利軍の策略だったのです。
近江に佐々木道誉がいるということは、後醍醐天皇がいる東坂本は、背後を取られたことになります。
京都と近江に挟まれる形になった後醍醐天皇方は、どれだけ戦えるかわからない状況に陥りました。
足利尊氏からの密書
窮地に立たされた後醍醐天皇のもとに足利尊氏から密書が届きました。
そこには、そもそも自分は後醍醐天皇と対立する意思などなく、新田義貞の讒言のせいで、このような事態になっているだけだと書かれていました。
そして、後醍醐天皇が降伏すれば、現在の持明院統の光明天皇の皇太子に後醍醐天皇の皇子を立て、次の天皇に即位させることを約束するとまで書かれています。
後醍醐天皇の大覚寺統と光明天皇の持明院統は、鎌倉時代から交代で即位する約束となっていましたが、これを後醍醐天皇が破りました。
しかし、それも水に流し、今後は再び両統から交代で天皇をたてるようにしましょうと、足利尊氏から申し出てきたので、後醍醐天皇は、降伏を受け入れることにしました。
そして、10月9日に後醍醐天皇は、新田義貞に何も告げず、東坂本を起ち、足利尊氏の許へと出発することにしました。
新田義貞の北国行き
しかし、後醍醐天皇の動きはすぐに新田義貞に気付かれます。
そして、配下の堀口貞満が、後醍醐天皇の様子を見に行くことにしました。
すると、後醍醐天皇はすでに出発する準備を済ませており、これを見た堀口貞満は、今回の降伏を新田義貞にだけ告げなかったことに怒りを覚え、天皇を大いになじりました。
当時としては、堀口貞満の行為は大変無礼なものでしたが、後醍醐天皇は、彼の言うことはもっともだと思い、新田義貞に全てを打ち明けることにします。
降伏すれば、後醍醐天皇の皇子を皇太子に立てるという条件があることを新田義貞に話し、そして、義貞には、恒良親王(つねながしんのう)と尊良親王(たかながしんのう)とともに北国に落ちのび、再起を図るようにと命じます。
さらに後醍醐天皇は恒良親王に譲位しました。
これで、新田義貞が恒良親王とともにいる限り、朝敵にはなりません。
ただ、表面上は、新田義貞が恒良親王と尊良親王をむりやり北国に連れ去った形にして、足利尊氏が後醍醐天皇に危害を加えないようにしました。
足利直義が花山院に閉じ込める
10月10日。
新田義貞が、恒良親王と尊良親王とともに北国に向けて出発した後、後醍醐天皇も比叡山の根本中堂から東寺に向かいました。
これで、兵乱も治まり、再び平和が訪れると後醍醐天皇に仕える公卿たちは思っていました。
しかし、その期待はすぐに裏切られます。
途中、法勝寺で足利尊氏、直義の兄弟と面会し、その後で、東寺で光厳上皇と光明天皇と対面することになるだろうと思っていた後醍醐天皇でしたが、法勝寺の山門前に到着すると、足利直義の軍勢に取り囲まれました。
そして、後醍醐天皇は、花山院(かざんいん)へと護送されるように連れて行かれ、その他の公卿は、官位を剥奪されたり、処刑されました。
花山院に幽閉された後醍醐天皇には、女房達だけが側近としておかれましたが、それ以外の公卿たちは近づくことを許されません。
後醍醐天皇も、それにしたがう公卿たちも、足利直義にまんまと騙されたのでした。
後醍醐天皇が幽閉された花山院は、小一条殿(こいちじょうでん)とも呼ばれており、平安時代には藤原忠平の邸宅がありました。
明治維新までは、花山院家の邸地でしたが、後に配され、現在は宗像神社(むなかたじんじゃ)の社殿が建っています。
ちなみに宗像神社は、京都市上京区の京都御苑内にあります。