源平の争乱の始まりとなったことで有名なのが、保元元年(1156年)に起こった保元の乱です。
保元の乱の時は、まだ源氏と平家が戦うというよりも朝廷を中心とした争いに源氏と平家が参加したという形でした。
乱の原因は、後白河天皇と崇徳上皇との間の権力争いだったのですが、その争いに源氏も平家も身内同士で戦うことになります。
特に源氏は、父の源為義と長男の義朝が敵味方となって戦い、義朝の弟たちは父・為義につきました。
そして、その弟達の中には、弓の名手として知られる源為朝も混ざっていたのです。
義朝を射た為朝の強弓
保元の乱は、義朝が加勢した後白河天皇方が崇徳上皇方を夜討ちしたことで始まります。
そして、合戦は、三条河原近くに移り、両軍が戦うことになりました。
崇徳上皇方についた為朝は、まず、後白河上皇方の平清盛の軍と衝突します。
為朝は、自慢の強弓で清盛の家臣を一人、二人と射抜きました。
これを見た清盛は、為朝には叶わないと判断し、即座に撤退し、別の戦場へと向かいます。
為朝が清盛の二人目の家臣を射抜いた矢は、馬に刺さり、その馬が暴れ、源義朝の陣へと駆けて行きました。
この暴れ馬を取り押さえた義朝は、為朝軍に向かって陣を進め、とうとう兄弟同士での戦いとなったのです。
当初、為朝は、兄の義朝と父の為義との間で何らかの計略があるのではと思い、義朝に対して矢を射ませんでした。
しかし、次第に為朝軍の形成は不利になっていきます。
そこで、遂に為朝は義朝を射る決心をします。
矢をつかみ、強弓をキリキリと引っ張り、義朝に狙いを定め、ビュンっと放った矢は一直線に義朝の頭目がけて飛んでいきます。
そして、矢は、義朝の兜の星を射削り、宝荘厳院の門の柱に刺さりました。
為朝は、義朝を射抜くことができたのですが、やはり兄を手にかけることができなかったのです。
結局、形成は逆転せず、為朝が加担した崇徳上皇方は敗北。
父の為義と兄達は捕えられ、義朝の手によって処刑されました。
やがて、為朝も後白河天皇方に捕えられましたが、その武運を惜しまれ、二度と弓を射ることができないように肘の筋を切られ、伊豆に島流しとなったのです。
為朝石
源為義為朝が、弓の名手であったことを伝える逸話は、いろいろとあります。
例えば、強弓を使っていたことから、左腕が右腕よりも長かったとか。
他にも京都市右京区に建つ平岡八幡宮には、源為義為朝が射抜いたと伝えられている石が境内にあります。
この石は、為朝石と呼ばれています。
為朝石は、勝運出世の石と伝えられており、椿説弓張月の中でも、類似の記述が見られるとか。
なお、保元の乱については、以下の記事も参考にしてみてください。