京都市北区の大徳寺に高桐院という塔頭(たっちゅう)が建っています。
創建は、慶長6年(1601年)で、建立したのは、細川忠興(ほそかわただおき)です。
境内には、忠興とその妻のガラシャの墓があります。
関ヶ原の戦い前に最期を遂げたガラシャ
ガラシャは、もとの名を「たま」といいます。
たまは、明智光秀の娘で、後に織田信長のすすめにより細川忠興に嫁ぎました。
この時、たまは、後に父の光秀が本能寺で織田信長を討つということを想像していなかったでしょう。
本能寺の変により、たまの運命は変わります。
光秀は、本能寺の変の後、羽柴秀吉と山崎で戦うことになりますが、その前に自分の娘が嫁いだ細川家に味方に付いてほしいと頼みます。
しかし、細川家は光秀の頼みを断り、たまを丹後に幽閉しました。
その後、秀吉の計らいで、たまは細川家に戻ることができました。
細川家に戻ったたまは、キリスト教に興味を持ち、洗礼を受けてガラシャという洗礼名を受けます。
現在、たまが、細川ガラシャと呼ばれるのは、これが理由ですね。
慶長5年。
徳川家康と石田光成が戦った天下分け目の関ヶ原の戦いが起こります。
この時、夫の忠興は、徳川に味方し、上杉討伐のために出陣しました。
その隙をついて、西軍の石田光成がガラシャを人質にとろうとしましたが、彼女はこれを断ります。
すると、石田勢が屋敷に攻めてきたため、ガラシャは、家臣に自らを槍で突かせ、命を絶ちました。
山崎の戦い、関ヶ原の戦いと2度の天下分け目の戦いが、不幸にもガラシャの運命を変えてしまったわけですね。
忠興とガラシャの墓
ガラシャの骨は、屋敷が焼け落ちた後、神父によって拾われ、大阪市東淀川区の崇禅寺に埋葬されたと伝わっています。
他にも数カ所にガラシャの墓は存在し、そのうちのひとつが京都市北区の高桐院にあります。
高桐院の墓所に置かれた灯籠が、細川忠興とガラシャの墓です。
この灯籠は、もともと千利休が保有していた天下一の灯籠といわれたものです。
時の権力者であった豊臣秀吉は、利休に灯籠を譲って欲しいと頼みましたが、細川忠興からも譲って欲しいと頼まれていたため、裏面三分の一を割って、これは傷物だからという理由で秀吉の頼みを断ったと伝えられています。
後に利休が大徳寺三門に自らの像を掲げたことを理由に秀吉から切腹を命じられた際、遺品として忠興が灯籠を譲り受けることとなりました。
灯籠は、他にも数カ所破損している部分がありますが、これは忠興が完全を忌み、自身の手によって欠いたものだそうです。
墓所には、忠興の父の藤孝(幽斎)を始め、3代から12代までの細川家歴代の墓もあります。
他に出雲阿国など多くの著名人の墓もあるようですが、私が訪れた時は、どれがその墓なのかわかりませんでした。
大徳寺には、高桐院だけでなく、戦国武将とゆかりのあるお寺がいくつも建っているので、興味がある方は、一日中楽しめると思いますよ。
なお、高桐院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。