斎王が身を清めた賀茂斎院跡

京都市上京区の市バス停「天神公園前」から西に約5分歩くと、櫟谷七野神社(いちいだにしちのじんじゃ/いちいだにななのじんじゃ)という神社が建っています。

周辺は住宅街で、旅行者や観光客が訪れることがほとんどない閑静な場所。

だからか、平安時代に斎王が住まった地だと知ると、確かにここは身を清めるのに良いところだったのだろうと思えてきます。

斎王の御所

毎年5月15日は、上賀茂神社下鴨神社の祭礼である葵祭の路頭の儀が催されます。

平安装束をまとった人々の行列はとても華やかで初夏の爽やかな気候とよく調和し、観覧者の目を和ませてくれます。

その路頭の儀で最も注目を集めるのが斎王代。

葵祭の斎王代

葵祭の斎王代

十二単(じゅうにひとえ)を身につけた女性が輿に乗って通過すると、沿道で感嘆の声が上がります。

斎王代は、「代」と付いているように斎王の代わりを果たしており斎王とは異なります。

斎王は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社)に奉仕した斎内親王のことです。

嵯峨天皇が、薬子の変の前に賀茂神に対立していた平城上皇(へいぜいじょうこう)に勝利した暁に皇女を阿礼乙女(あれおとめ)として捧げると祈願し、その願いが叶ったことから第八皇女の有智内親王(うちこないしんのう)を初代の斎王としたと伝えられています。

そして、櫟谷七野神社が建つ地に斎王が身を清めて住まう御所を造営したことから、当地は賀茂斎院とされ、周辺の地名が紫野であったことから紫野斎院とも呼ばれました。

現在、櫟谷七野神社の境内には、本殿の右手前に「賀茂斎院跡」と記された大きな石碑が置かれています。

賀茂斎院跡の石碑

賀茂斎院跡の石碑

斎王は、累代未婚の皇女や王女が卜定(ぼくじょう)され、平安時代から鎌倉時代にかけて35代、約400年継続しましたが、建暦2年(1212年)に後鳥羽天皇の皇女礼子内親王(いやこないしんのう)をもって廃絶しています。

石碑の説明書によると、斎王の中には選子内親王(のぶこないしんのう)や式子内親王(のりこないしんのう)のように卓越した歌人もあり、斎院でしばしば歌合せが催されたそうです。

また、斎院には約500人の官人や女官が仕えており、女官にも優れた歌人が少なくなかったとのこと。

現在の櫟谷七野神社の境内を見ると、500人も暮らせるほど広くは感じられないので、かつての斎院の敷地はもっと広かったのでしょう。

鎌倉時代に斎王が廃絶となった後、葵祭に斎王の代わりとして斎王代が復活したのは、昭和31年(1956年)のことです。

葵祭で斎王代が見られるようになったのは、意外と最近のことなんですね。

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