安政7年(1860年)3月3日に大老井伊直弼(いいなおすけ)が水戸浪士に暗殺される桜田門外の変が起こります。
天皇を敬い外国人を日本から追い出そうとする尊王攘夷運動が盛んな時期に白昼堂々と大老が暗殺されたのですから、幕府の権威は一気に失墜しました。
このままでは幕府が危ないと考えた久世広周(くぜひろちか)と安藤信正の2人の老中は、朝廷と幕府が手を取りあって国難を乗り切る公武合体に舵を切り始めます。
皇女和宮と徳川家茂の婚儀が提案される
公武合体の方法として提案されたのは、孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)と将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の婚儀でした。
内親王が将軍に嫁ぐことは、井伊直弼が存命中に彼の腹心であった長野主膳と九条家の家臣島田左近によって発案されており、桜田門外の変の後に降ってわいたものではありませんでした。
当初は、富貴宮が候補とされていましたが、彼女が亡くなったため和宮を降嫁させる案が浮上します。
和宮は、すでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していましたが、朝廷側からも公武合体を進めようとの動きがあり、婚約を破棄して徳川家茂に嫁がせることが決定されました。
この時に活躍したのが、岩倉具視です。
彼は身分は低かったものの策士として知られており、孝明天皇からも寵愛されていました。
白昼、大老が暗殺され幕府の権威が地に落ちた今、朝廷の権威を回復する絶好の機会が到来したものの、武力で幕府と争うのは国内を混乱させ、諸外国からの侵略を許すだけ。
そう考えた岩倉具視は、和宮降嫁との交換条件として、幕府に10年以内の攘夷決行を約束させることを天皇に進言します。
これに対して、老中の久世広周と安藤信正も、幕府の権威を取り戻すためにはやむを得ないと判断し、10年以内の攘夷決行を約束しました。
そして、和宮の一行は、文久元年(1861年)10月20日に江戸に向けて出発したのでした。
時代祭では、輿入れ前の十二単(じゅうにひとえ)姿で和宮が登場します。

時代祭に登場する和宮
宮廷内での姿を再現したものなので、将軍家茂に降嫁する時の様子ではありません。
朝廷から追放され岩倉へ
幕府に攘夷決行を約束させ、朝廷が政治の主導権を握る道を開いた岩倉具視でしたが、攘夷派公卿から幕府寄りであると見なされ追放されてしまいました。
官位を剥奪された彼は、頭を丸め、京都市左京区の岩倉の農家に蟄居することになります。
農家は、六畳、四畳半、三畳の狭い家で、日記に「終日掃除ノ処古家ニテ実ニ住居ナシ難シ、兎ニ角落涙ノ外ナシ」と記しており、もはや絶望しかないといった心境がうかがえます。
後に大工藤吉の家を購入して移り住み、その時の住宅は、現在も岩倉具視幽棲旧宅として残っています。

岩倉具視幽棲旧宅
叡山電車の岩倉駅から北に徒歩約15分で到着しますが、そこに行くまでの道は今でも民家がまばらで、人とすれ違うことも少ないです。
幕末だと、本当に人が立ち寄るような場所ではなかったのでしょうね。
そんな寂しい家に一人の浪士が訪れ、岩倉具視に切断された人の腕と手紙を届けます。
その腕は、尊王攘夷派に暗殺された賀川肇(かがわはじめ)のもので、彼は岩倉具視とともに幕府寄りだと見られていた千種有文(ちぐさありふみ)の家臣でした。
手紙には、静かにしていないとお前もこうなるぞという脅しが記されており、背筋が凍るような日々を過ごしたことでしょう。
岩倉具視が旧宅で暮らしていたのは、慶応3年(1867年)11月までで、その間に大久保利通や坂本竜馬なども訪れ倒幕のための密議が行われていました。
誰も来ない山麓の小さな家だったので、ひそひそ話にはもってこいだったのでしょう。
なお、岩倉具視幽棲旧宅の詳細は以下のページを参考にしてみてください。