平清盛の母は、祇園女御(ぎおんのにょうご)と伝えられています。
祇園女御は、白河法皇の寵姫でしたが、平忠盛に与えられ、そして、清盛を生みました。
祇園女御が、平忠盛のもとにやってきたときには、すでに妊娠していたとされていることから、平清盛は、白河法皇の子供だとも伝えられていますね。
その祇園女御ですが、晩年は、京都市東山区の円山公園の近くで余生を送ったと言われています。
阿弥陀堂の跡地に建つ京都祇園堂
京阪電車の祇園四条駅から、東に5分ほど歩くと八坂神社が建っています。
八坂神社の境内を東に抜けると円山公園があり、その南が、祇園女御が余生を送った場所とされています。
祇園女御は、屋敷の隣接地に阿弥陀堂を建立し、白河法皇が崩御した後、その菩提を弔ったといわれています。
阿弥陀堂が建立されたのは長治2年(1105年)で、堂内には、丈六の阿弥陀如来が安置されたそうです。
しかし、祇園女御が、天永2年(1111年)に右京区の仁和寺に威徳寺を建立して移り住んだため、阿弥陀堂のその後は、はっきりとはしていません。
跡地に蓮華寺というお寺が建立されたともいわれていますが、詳細は不明で、ただ一宇が残っていただけだったそうです。
近代に入り、廃寺となり、祇園女御という木像があったのですが、京都府庁に移されたと言われています。
そして、跡地には祇園女御塚という墳墓だけが残っていました。
明治37年(1904年)に阿弥陀堂が建立され、昭和47年(1972年)には、祇園女御塔も建立されました。
さらに平成6年(1994年)に阿弥陀堂京都祇園寺が建ち、阿弥陀堂と祇園女御塔は、京田辺市天王に移されました。
現在は、阿弥陀堂京都祇園時は、京都祇園堂と呼ばれています。
堂内には、祇園女御の菩提を弔うために阿弥陀如来が祀られており、中に入って自由に参拝できるようになっています。
平成16年(2004年)には、宝篋印塔の祇園女御塚が新たに建立され、建物の前に置かれていましたが、いつのまにか、五輪塔の祇園女御塔に代わっています。
確かにこの場所には、祇園女御塚があり、以下の記事にも、同じ場所に宝篋印塔の祇園女御塚が写っている写真を掲載しています。
上の記事は、2010年に書いたものですが、2012年2月3日に京都祇園堂の前を通った時には、五輪塔の祇園女御塔に代わっていました。
また、2010年当時は、宝篋印塔の祇園女御塚の説明書には、祇園寺と書かれていましたが、2012年には京都祇園堂となっていました。
この説明書は、平成16年の祇園女御塚が建立されたときに置かれたものです。
ネット上では、祇園女御塔を祇園女御塚として、紹介しているページが見られますが、正しくは祇園女御塔です。
2012年頃に祇園女御塔が、京田辺市から戻ってきたようですね。