京都市左京区に百万遍知恩寺というお寺が建っています。
当寺は、浄土宗四ヶ本山のひとつに数えられており、割と広い境内を持っています。
その百万遍知恩寺の広い境内には、阿弥陀さまが刻まれた阿弥陀仏経碑(あみだぶつきょうひ)という石碑があります。
原形は宗像大社にある
百万遍知恩寺には、京阪電車の出町柳駅から東に10分ほど歩くと到着します。
今出川通に面する山門をくぐり、境内に入ると、中央に大きな本堂が建っています。
この本堂の右手前に阿弥陀仏経碑が置かれています。
下の写真に写っているのが、その阿弥陀仏経碑です。
石碑を覆うように屋根が設置されています。
阿弥陀仏経碑は、正徳2年(1712年)に建立されたもので、正面に南無阿弥陀仏の名号と阿弥陀如来座像が刻まれ、後ろには阿弥陀経の全文が刻まれています。
実は、百万遍知恩寺にある阿弥陀仏経碑は、福岡県宗像市の宗像大社(むなかたたいしゃ)にある阿弥陀仏経碑の複製です。
宗像大社にある石碑は、宋の紹煕6年(1195年)に中国で造られ、その後日本に渡ってきました。
平清盛の長男の平重盛が、宋に砂金を献じ、その返礼として贈られたのが宗像大社にある石碑ということです。
では、なぜ、百万遍知恩寺に宗像大社に贈られた石碑の複製があるのでしょうか。
その理由は、百万遍知恩寺の事実上の開山である源智上人が、平重盛の孫にあたるという縁からです。
また、同様の阿弥陀仏経碑は、東山区の小松谷に建つ正林寺にもあります。
正林寺にある阿弥陀仏経碑は、延享3年(1746年)に百万遍知恩寺にある石碑を複製したものです。
正林寺は、かつて平重盛の邸宅があった地と伝えられていますから、その縁で阿弥陀仏経碑が建立されたのでしょうね。
さて、知恩寺にある阿弥陀仏経碑は、本家の宗像大社のものよりも背が高く、像容にも少し違いがみられるそうです。
その理由は、以前に紹介した書籍「京都 知られざる歴史探検」の上巻に載っていますので、以下に引用します。
考古学者・原田大六氏の研究によると、知恩寺碑は宗像大社碑を直接見て模造したのではなく、その拓本を元にして造られたものであったらしい。ただ、碑の大きさについては『宗像軍記』(元禄十七年<一七〇四>刊)という書物に間違った数値が記載されていたため、知恩寺碑を製作した石工はそれにまどわされ、結果としてできあがった作品は原碑よりも大きくなってしまったのだという。
通信手段が発達していなかった時代ですから、このような失敗が起こったのも仕方ないですね。
百万遍知恩寺に参拝した時は、阿弥陀仏経碑もぜひご覧になってください。
なお、百万遍知恩寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。