京都市東山区にある円山公園は、京都市民の憩いの場であるとともに旅行者や観光客の方が休憩する場所として、いつも賑わっています。
円山公園が造られたのは、明治19年(1886年)ですから、国内でもかなり古くからある公園です。
春になるとたくさんの桜が咲く円山公園は、近年、特に多くの方がお花見に訪れるようになっていますね。
ところで、円山公園が、今のように賑わいだしたのはいつごろからなのでしょうか。
つい最近のように思われるかもしれませんが、実は古くからこの界隈はリゾート地として栄えていたのです。
かつては時宗寺院の境内だった
円山公園は広大な敷地を持っていますが、かつては、安養寺、長楽寺、雙林寺、八坂神社の境内地でした。
しかし、明治初年の上知令により、明治政府に境内地が没収され、その後、円山公園が造営されました。
安養寺や長楽寺は時宗のお寺で、今も、円山公園の周囲に残っています。
かつて持っていた広大な境内には、多くの塔頭(たっちゅう)寺院が建ち並び、それらが料亭の役割を果たしていました。
特に円山公園の東奥に建つ安養寺は、勝興庵正阿弥(しょうこうあんしょうあみ)、長寿庵左阿弥(さあみ)、花洛庵重阿弥(からくあんじゅうあみ)、多福庵也阿弥(たふくあんやあみ)、延寿庵連阿弥、多蔵庵源阿弥という6つの塔頭があり、これらは六阿弥(ろくあみ)と総称されていました。
時宗は、鎌倉時代に一遍が開いた仏教の宗派で、踊り念仏が当時の民衆に大人気となります。
時宗は、他の宗派よりも俗世間と交わりを持っていたので、信者の数も多かったのでしょう。
江戸時代後期からリゾート化していく
江戸時代後期になると、六阿弥は茶店、料亭、貸座敷として、当時の文人や粋人に遊楽の場として利用されるようになります。
芸術家の円山応挙の円山四条派は、春秋2回、東山新書画展観を行っており、幕末には正阿弥や雙林寺長喜庵が会場として使われました。
ちなみに円山公園の近くには、18世紀に池大雅の住いもありました。
このように円山公園界隈は、すでに江戸時代から文化人たちがよく利用するリゾート地だったのですが、明治になってからさらに発展していきます。
明治6年には、六阿弥のひとつ多蔵庵源阿弥が、温泉療養のための宿泊施設「吉水温泉」に変わり、東山の中腹に金閣を模した三重の楼閣を建設しました。
また、左阿弥ではかき餅や梅酒の販売が行われましたし、明治12年には長崎出身の井上万吉が日本初の西洋風の宿泊施設「也阿弥ホテル」を開業しています。
しかし、也阿弥ホテルは、正阿弥も吸収し繁栄したのですが、明治39年の火災で廃業しました。
なお、六阿弥の中では左阿弥が、今でも円山公園の東側の安養寺近くで料亭として営業を続けています。
明治5年の京都博覧会の際は、円山一帯に多くの外国人客が宿泊したそうですから、この頃には、すでに現在の円山公園のような外国人旅行者の賑わいがあったのでしょうね。
円山公園の西に建つ八坂神社の南側では、中村屋と藤屋の二軒茶屋が繁盛していました。
そのうち中村屋は、京都博覧会を契機に洋室を用意し、西洋料理も供するようになります。
また、藤屋も明治10年に洋式ホテルの自由亭に姿を変え、のちに常盤ホテル、京都ホテルと変遷し、現在はホテルオークラ京都となっています。
外国人向けのホテルは、先の也阿弥ホテル、京都ホテル、そして、蹴上の都ホテル(現ウェスティン都ホテル京都)が明治時代の代表で、いずれも東山観光に最適な立地でした。
現在、円山公園界隈に多くの外国人旅行者が訪れていますが、この人気は100年以上前から続くもので、今に始まったわけではないようです。
京都市内の他の地域で、外国人旅行者の方々を見かけると、まだ何となく違和感を感じます。
円山公園で、様々な国の人々が歩いていても違和感を感じにくいのは、この地が昔から文化が発展した地であり、多くの外国人旅行者を受け入れてきたからなのかもしれませんね。