京都市内で最も有名なお城は、中京区に建つ二条城でしょう。
慶長8年(1603年)に徳川家康が将軍上洛時の居館として築城したのが、現在残っている二条城です。
この他にも、織田信長が築いた二条城もあったのですが、現在は残っていません。
織田信長、徳川家康ときたら、豊臣秀吉も二条城を築いたのではないかと思った方は勘がいいですね。
豊臣秀吉妙顕寺城跡の石碑
豊臣秀吉が二条城を築いたのは、天正11年(1583年)でした。
場所は、現在の二条城の少し東の押小路通小川西入ル古城町です。
現在、秀吉の二条城の跡地には、真宗大谷派の西福寺というお寺が建っています。
西福寺はそれほど大きなお寺ではないので、お城にしては狭すぎます。
なので、秀吉の二条城は、この辺りに広大な敷地を持っていたのでしょう。
その西福寺の山門の東側には、豊臣秀吉妙顕寺城跡と刻まれた石柱が立っています。
二条城は妙顕寺城とも呼ばれ、秀吉最初の洛中の拠点でした。
ここが妙顕寺城と呼ばれたのは、かつて妙顕寺が建っていたからです。
妙顕寺は、日蓮宗最初の京都のお寺で、元亨元年(1321年)に日像上人によって建立されたのが始まりです。
当初は、ここからもっと南の四条櫛笥(しじょうくしげ)を拠点として法華宗の布教を行っていたのですが、応仁の乱や天文法華の乱で寺地を移転し、その後に当地に定まりました。
しかし、ここに秀吉が二条城築城を計画したことから、上京区の小川寺ノ内に移転させられています。
なお、妙顕寺は、現在も小川寺ノ内に残っています。
翌年に聚楽第へ
二条城は秀吉の政庁として機能しましたが、築城の翌年の天正14年に聚楽第が造営されると政庁はそちらに移されました。
秀吉の二条城の姿は詳しくはわかっていないものの、周囲に濠がめぐらされ、天主もあったと伝えられています。
妙顕寺城跡の説明書によると、平素は五奉行の前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎に使われたとのこと。
現在は、秀吉の二条城をしのぶものが全くなくなっていますが、古城町の町名が、ここに城があったことを今に伝えています。
閑院址
豊臣秀吉妙顕寺城跡の石碑の近くには、閑院址の駒札も立っていたので読んでみることに。
ここから北西に当る西洞院通、押小路通、油小路通、二条通に囲まれた地域は、平安時代から鎌倉時代の初期にかけて藤原氏の邸宅があった場所です。
当初は、藤原冬嗣の邸宅があったのですが、11世紀初期に藤原公季(きんすえ)が伝領してから閑院と称したそうです。
平安時代末期の高倉天皇の時代には、大内裏が荒廃したため、閑院邸が臨時の皇居である里内裏として利用されています。
さらに鎌倉時代初期には、後鳥羽天皇もここで皇位を承継し、朝廷の中心となったところでもあります。
その後、後深草天皇にいたる9代90年以上、里内裏となっていましたが、正元元年(1259年)5月に火災で焼失しています。
今は、西に建つ徳川家康築城の二条城がとても目立っていますが、それ以前は秀吉の二条城や里内裏ともなった閑院があった当地の方が栄えていたのではないでしょうか。