平安時代、嵯峨天皇の皇子であった源融(みなもとのとおる)は、源氏物語の光源氏のモデルと言われています。
光源氏のモデルですから、当然、源融は貴族であり、宇治に別荘を持つほど優雅な暮らしをしていました。
しかし、摂政の藤原基経の力が強くなったことで、源融は隠棲することになり、鴨川の近くに河原院(かわらのいん)という邸宅に住むことになります。
エノキの下に残る河原院跡の石碑
河原院があったのは、下京区の五条河原町の辺りとされています。
そして、河原院があったとされる場所にはエノキが植えられていて、その下に河原院跡を示す石柱が立っています。
設置されている説明書によると、河原院は、東西・鴨川の中央あたりから西へ柳馬場通、南北・五条以南正面通あたりまでの大邸宅だったそうです。
どれくらいの広さだったのかを地図で確認したところ、東本願寺、西本願寺、東寺といった大寺院の境内をしのぐほど広大な敷地を持っていたことがわかりました。
今では、この付近にはたくさんの民家が建ち並んでいますが、それらは全て河原院跡に建てられているわけですね。
河原院跡を示す石柱の近くに植えられているエノキは、源融の邸宅内にあった森の名残とのこと。
また、平成12年(2000年)には、エノキが京都市の「区民の誇りの木」に選ばれています。
近くには小さな祠と鳥居があります。
これは、榎大明神と呼ばれる社です。
先ほど紹介したエノキは、この社の神木ということです。
河原町の由来は、源融の河原院からと伝えられています。
源融は、塩焼きが好きだったようで、陸奥の塩竃の風景を模した池を邸宅内に造り、毎月、難波の海から海水を運ばせて塩焼きを楽しんだと言われています。
この付近の地名が本塩竃町なのは、その名残ですね。
本塩竃町にある本覚寺も、源融の河原院跡の一部に建っており、源融の幽霊が出ると言い伝えられています。
また、新京極に建つ錦天満宮は、河原院内にあった鎮守社でした。
歓喜光寺といったん合併しましたが、明治時代の神仏分離によって寺は東山五条に移り、現在は山科大宅に移築されています。
その錦天満宮の末社には源融を祀る塩竃神社があります。
ちなみに塩竃神社は安産のご利益があるそうですよ。
今では、エノキと石柱だけとなっている河原院跡ですが、河原町や本塩竃町といった地名が残っているので、この付近が源融の邸宅跡だったということが忘れられることはないでしょうね。