応仁の乱後の京都の復興は六角堂から始まった

応仁の乱(1467年)は11年にもおよび、京都の町を焼き尽くしました。

多くの家屋が焼失し、焼け野原となってしまったわけですが、現在でも京都の町が栄えていることから、歴史を知らなくても応仁の乱後に町が復興されたんだと想像できますね。

応仁の乱で壊滅的打撃を受けた京都を最初に復興したのは誰だったのでしょうか。

織田信長や豊臣秀吉など歴史上の有名な人物が思い浮かぶかもしれませんが、実は、応仁の乱後、最初に京都の町を復興しようとしたのは町衆と呼ばれる庶民たちだったのです。

下京の復興の拠点となった六角堂

町衆が、応仁の乱後の復興のために最初に再建したのが六角堂でした。

彼らは、京都に自治の制度を作り、下京の拠点を六角堂にしたのです。

ちなみに上京の復興の拠点となったのは行願寺です。

町衆が信仰したのは法華宗でした。

法華宗は、その当時では新しい仏教の宗派で、現世利益を認めていました。

他の宗派が鎮護国家や極楽往生を説いていたのに対して、法華宗が現世利益や欲望を認めていたことから、応仁の乱で疲れ切っていた町衆は受け入れやすかったのでしょう。

多くの仏教の宗派が、都会から離れた山の中にお寺を作っていたのに対して、法華宗は京都の町中に次々とお寺を建設し、本山の数は21にも達しました。

これら法華宗の本山は、高い塀や深い堀を持っており、城郭のような役目を果たしていました。

自治をとるためには、自衛手段も必要だったでしょうから、お寺を戦闘に耐えられる造りにしたのでしょう。

武器も保管していたということです。

また、町衆は大名や寺社に納める地子銭と呼ばれる税金の納入も拒否し、自分たちの利益を優先します。

ここまで来ると、大名や寺社も町衆の自治を許し続けることはできません。

近江の大名六角貞頼と比叡山が手を組み、十数万もの大軍を京都に送り込んできたのです。

これに対して法華一揆と呼ばれていた町衆は3万人程度。

六角堂を拠点に戦った町衆でしたが、多勢に無勢ということもあって六角貞頼と比叡山の連合軍に敗れてしまいます。

六角堂

六角堂

また、21あった本山も焼き払われ、信徒たちは京都から追い出されてしまいました。

後にこの事件は、天文法華の乱や天文法難と呼ばれるようになります。

天文法華の乱で法華宗の本山は焼失したものの自治の拠点であった六角堂は残りました。

その後、織田信長が京都に入ってきます。

信長は、町衆に金銀の納入を命じましたが、上京の行願寺を拠点としていた町衆はこれを拒否したため焼き討ちに遭いました。

一方の下京の町衆は信長の要求を飲み、銀13枚を献納したことから焼き討ちを免れます。

信長は、下京の町衆に対しては寛大な態度をとるようになり、下京はやがて商人の街として発展していきました。

現在、中京区や下京区はビジネス街として発展しています。

室町時代や安土桃山時代には、この地域が下京と呼ばれていました。

もしも、応仁の乱後に町衆が六角堂を拠点に自治をとらなければ下京の発達はなかったかもしれません。

また、織田信長の要求を拒んでいたら、再び六角堂は焼失していたでしょうね。

なお、六角堂の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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