真如堂にある海北友松の墓

安土桃山時代を代表する画家に海北友松(かいほうゆうしょう)がいます。

海北友松は、天文2年(1533年)に近江の浅井家に仕える海北綱親の子として生まれました。

武士から画家へ

海北友松は、武士の子でありましたが、父が戦死したのをきっかけに東福寺に入り修業します。

海北家は、後に浅井長政が織田信長に滅ぼされた時、それに殉じています。

しかし、友松は、この時、東福寺で僧侶の世話をする稚児として暮らしていたため難を逃れることができました

彼が、画家となる素養を身につけたのは東福寺での修行中で、この時、狩野派から学んだと言われています。

後に海北友松は豊臣秀吉に仕えることになり、絵の才能を認められ画家として生きていきます。

海北友松の描いた画で有名なのが、建仁寺にある雲龍図ではないでしょうか。

他にも山水図、竹林七賢図、琴棋書画図(きんきしょがず)、花鳥図といった障壁画も描いています。

また、妙心寺には花卉図(かきず)屏風も彼の作として伝わっています。

しかし、海北友松は画家として一生を終えることを良しとはしていませんでした。

彼は、死ぬまで海北家の再興を望んでおり、武士として生きたかったようです。

自分の思いとは関係なく画家として生きていかなければならなかった海北友松。

それは、彼自身の画家としての才能が、周囲から評価され、そうせざるを得なかったのでしょうね。

海北友松は、大坂夏の陣が起こった慶長20年(1615年)に亡くなっています。

戦乱の世の終わりとともにこの世を去った海北友松。

そのお墓は、京都市左京区の真如堂にあります。

海北友松の墓

海北友松の墓

上の写真の右側に写っているのが、海北友松のお墓です。

その左隣に写っているのは、斎藤利三のお墓です。

斎藤利光は、明智光秀に仕えた武士で、山崎の戦いで戦死しました。

生前、彼と親交のあった海北友松が、真如堂に埋葬したと伝えられています。

ちなみに海北友松が、斎藤利三を真如堂に葬ったことで、彼の子の友雪は、利三の娘であった春日局(かすがのつぼね)から褒賞を受けています。

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて絵師として活躍した海北友松。

私は、まだ彼の作品を実際に目にしていませんが、本などで何度も見ています。

一度は、実物を見ておきたいですね。

いずれ建仁寺で拝観することでしょう。

真如堂に参拝した時には、海北友松のお墓にもお参りしてください。

なお、真如堂の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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