京都市東山区の四条通の東の端に八坂神社の朱色の楼門が建っています。
この楼門を見ると、祇園に来たなと思うんですよね。
おそらく、旅行で京都に訪れた方が、この楼門を見ると京都らしさを感じるのではないでしょうか。
八坂神社は、貞観元年(876年)に奈良の興福寺の円如が創建した天神堂が始まりと伝えられています。
なので、八坂神社は、当初は興福寺の末社だったのですが、ある事件を機に比叡山延暦寺に属することになりました。
美しい紅葉が争いのもと
八坂神社が興福寺から延暦寺に属することになった事件は、今昔物語集に記述があります。
八坂神社の東隣には、延暦寺に属する蓮華寺というお寺がありました。
蓮華寺には、見事な紅葉があり、八坂神社の別当をつとめていた良算が、寺男に枝を1本折ってくるように命じます。
しかし、寺男が蓮華寺の紅葉の枝を折ろうととしたところ、住職に見つかってしまいました。
住職は、いかに八坂神社の別当が高貴な人とは言え、無断で他宗の寺に入ってきて、紅葉の枝を折るのはけしからんと叱り、寺男を追い払いました。
寺男から報告を聞いた良算は、これに怒り紅葉の木を根元から切り倒してしまえと命じます。
一方の蓮華寺は、良算の出方を察しており、興福寺側に紅葉の木を切り倒される前に自ら切り倒してしまいました。
この八坂神社と蓮華寺のいざこざが、やがて興福寺と延暦寺の本山同士の争いへと発展します。
興福寺から延暦寺へ
両寺の争いは、朝廷に持ち込まれ、裁判となりました。
しかし、裁判の途中で延暦寺の慈恵上人が亡くなります。
これで興福寺側が有利になるかと思われますが、慈恵の霊の威力が強かったため、興福寺側の代表であった中尊は裁判に欠席せざるを得なくなり敗訴しました。
こうして、八坂神社は興福寺から延暦寺に属することになりました。
しかし、これで事件は解決したわけではありません。
その後も、両寺の争いは続き、興福寺は延暦寺に対して何度も八坂神社を返すように要求します。
時には、興福寺に属する清水寺と八坂神社との間で争いが起こることもあり、それに巻き込まれた法観寺が焼失したりもしました。
たった1本の紅葉の木が、これだけ大きな争いとなるとは、現代ではちょっと考えられませんね。
その背景には、仏教の宗派同士の確執のようなものがあったのかもしれません。
八坂神社という名は、明治になって確立したもので、それ以前は、祇園社、祇園感神院、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)など、様々な名で呼ばれていました。
現在の八坂神社の境内は、いつも参拝者でにぎわっています。
元日は、参拝者がとても多いので、いざこざが起こっているかもしれませんが、普段は、人と人が争う姿を見ることはないですね。
神社へは、心静かに参拝したいものです。
なお、八坂神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。